水彩画を描く時の構え方。

   



 水彩画は描き出すところが、なかなか良いものだ。水彩画ほど描き出しの気分の良い画法はないだろう。下描きから始めるわけではない。画面はどこで止めても、その時点で出来上がったと言っても良いような状態のまま進んで行く。純白の紙に薄い一番きれいな彩色がおかれて行く。

 水彩画の描き出しは余りにきれいだから、この先に行けなくなる。気をつけているのはこの時点での美しさは、水彩画素材の持つ材料的な美しさであって、決して自分というものが見ている美しさとは違うと意識する。素材の魅力を損なうことは良くないが、自分の絵になるまで描かなければ絵ではない。

 描き出しの調子は、まだ自分の美しさでは無いので、自分の見ている何物かに向けて、壊されて行く。壊すことを通して、自分の見方、見え方を画面に持ってこようとするのだが、これがなかなか進まないことになる。試行錯誤している内に、水彩らしくも無いゴテゴテのもになる。
 
 ところが絵はもうダメだと思う先に、わずかに光が見えている。この光を頼りに、何度も絵の良いところを壊して行くという、矛盾に満ちたような行為が制作というほかない。そこそこまで描いたところでどのみち自分の絵とは言えない。やれることをやりきったというのではまだなのだ。やれないところまで上り詰めて描かなければ絵には成らない。

 絵を描くとは自分を越えたときのことなのだ。自分をぶち壊し、次の自分に進めるために絵を描いているとも言える。芸術としての絵画というのはそうして出来た残存のようなものではないか。たとえ天才であっても自分の絵を模写するようになったときが終わりなのだ。

 と言うようなことを何度でも書くのは、自分がそこまで出来ていないからだ。観念的な学んだ知識を持って、それらしく描くことは出来ないわけでは無い。そんな絵は知識のまねごとばかりやってきた。それではとうてい私絵画とは言えない。

 岡本太郎なら、「芸術は爆発だ」と言うところだろうが、確かに芸術という行為は、学んだことを巧みに整えたところで、何も新しいことが生まれないのは当然のことである。学ぶことは過去の集積であって、芸術はその先にあるはずだ。分かった範囲の仕事は職人仕事であり、商品絵画と言うことだ。芸術は未だかつて無い地平に立つと言うことだ。

 過去にないものと言っても、奇妙奇天烈なら良いというのでも無い。自分にとって切り開いた世界は通俗な様相をしているのかもしれない。絵画はその線、色、調子でその人間の有様を表しているものだ。取り繕ってきれい事をやったところでこれも芸術では無い。

 もちろん、私にそんな大それた経験があると言うことでない。ただ私でも、なにか良いかもしれないというような、自分の描いた絵に衝撃を受けるようなことがある。このときの体験こそ芸術に触れたような喜びがある。一体何故、自分にこれほどのものが生み出せたのかという驚きである。無我夢中の結果である。

 自分を否定できたときにしか、芸術の領域の前進はないとすれば当然のことだし、自分を否定するというのは尋常なことではないから、爆発と言うしか他に言いようが無いのだろう。乗り越えたような体験を思い出すと、気付いたときにはそうなっていたという感じである。

 だから、それをどう描いたのかもだいたいの場合、分からない。どうにもならないで、メチャクチャやったらば面白くなったと言うことに近い。こうすればどうだろう、ああすればどうだろうと、身についた方法で突破しようとしても、突破できないので、もうどうとでもなれと夢中に、思いもしないことを手がやっていたとき、思いも寄らない所に出ているという調子である。

 絵を描いていていつの間にか眠ってしまうことがある。眠っている間にやるべきことが湧いてきて、眼を開けて思わず描いて突破できたことがある。何故眠れたのかは分からないが、何が次に進むものになるのかはまったく分からない。

 もちろんそういう経験があるからと言え、もう一度同じ穴に狢が居るかと言えばそうでもない。居眠りばかりしていてはどうにもならない。その都度その都度、思いもしないこと、例えば水をこぼしたとか、絵を倒したと言うことが出発点になり、すごいことが起こると言うこともある。

 ただ、確かなことは分かったことを分かった範囲で描いている間は、そこそこには成るが、自分の底の世界に至ることは間違ってもない。日々この程度の繰返しである。自分の絵とは収まりきれないエネルギーのようなものが湧いてくる絵だと思う。力のある絵が出来ることがたまにある。今はこれに期待しているぐらいだ。

 絵を描くというのは、ただひたすら静かに描きながら、そういう突破することをまっているような気がする。そうした突破が来ると、一段高みに登るような感じだ。領域が変わる。そういう体験を通じて、一段一段と描く領域が様変わりする。観ている世界も見え方が変わる。

 何か神がかり的なことのようだが、ごく普通にそういう現象がおきて、絵が一段ずつすすんできた気がする。始めて描いた絵も今描く絵も同じ私がが描いた絵だと分かる。そういう意味では絵には何も変わらないところもある。その何も変わらないものを純化させようと言うことかもしれない。

 絵を見て貰えば分かってもらえる。そう言えれば良いのだが、まだまだほんの序の口に居るわけだから、言葉が余りに大げさに過ぎる。大げさすぎるようだが、実はこれでも言葉の方が足りないような気分が、絵を描く構えである。

 水彩画でとくに大切なことを絵の描き継具時の心の構えである。描き継いでいかなければ、私絵画の水彩画には成らない。描き継ぐとは問題点を手直しするという気分は間違ってもあってはいけない。修正の手順に従っていたのでは、力の無い仕事になる。あらたな気持ちで絵に向かい、その先に行くつもりで描き継ぐ。

 現実の世界を目の前にして対決をしないと、小さな自分の観念の中での仕事になる。だから写生に戻ることをしている。現実は甘くは無い。いつもおまえの絵のような、そんなものではないと言っている。都合良く自分に引き寄せることを拒絶している。現実は自分という器を越えろといつも言っている。

 家のアトリエで見て、充分に考えたことを、風景を前にしてぶつけてみる。この描くことの引き継ぎ方が一番重要だと思っている。絵を直すのではない。絵の問題点を無くすというのではない。絵が次の領域に進むための爆発の方法を探すことだ。

 昨日の絵を今日描き継ぐ、このときに全く新鮮な気持ちで描くことを心掛けている。始めてその場所を見るような気持ちで、始めてその絵を見た気持ちで、先入観を一切捨てて、描き継ぐ。反応だけに自分が成るようにして再開する。

 成果は出ないとしてもこの方法以外に、自分に至る道はない。成果など無いとしても、自分を励まして、覚悟して絵を描いて行くだけである。

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