「首里の馬」高山羽根子著を読んで

   



 車には何冊か読んでない本を積んである。絵を描いていて、急に読みたくなり本を読むことがある。本がないと落ち着かないのだ。現代農業は必ず車にある。急に読むためである。農文協には感謝の気持ちがあるので、たぶん死ぬまで定期購読であろう。

 車の中で「首里の馬」を読んだ。最新の芥川賞受賞作である。首里とあるものでついつい購入した。購入したので読んだのだが、沖縄の匂いがほとんどないので、がっかりした。すばらしく上手な構成の作品である。小説の構成がしっかりとしている。それが計算に見えるとしらけてしまうのでもあるが。

 首里の街を馬に乗って撮影して歩くという当たりがどう考えてもすっきり入らないことだった。琉球大学病院に行った帰りにバスの乗り換えもあり、首里の街を大分歩いた。ちょっと無理だろうという感じがした。引きこもりのような女性がそんなことやるのは余りに荒唐無稽な感じがした。首里に行ってみて余計に、不消化になった。

 その場所の記憶を意味も無く、記録を続けるという感覚は面白い。そういうひとは案外に多いものだ。生きるという意味をそういう所に見つけたくなると言うことはままある。その記録の多く場合は歴史的なものなのだが、この歴史的というのも意味があるようではあるが、よく考えてみれば底に生きる意味を見つけようとしても何もない。

 コレクターがテレホンカードを集めていて、そういうコレクションが無意味になる感じのようなもの。昔はマッチ箱をコレクションするというのもあった。ものをいくらでも集めるというのは収集癖というのか、一種の病のようなものなのだろう。何かを記録することで空いた穴を埋める。

 生きる上での精神的な穴埋めのようなものではないのだろうか。私は筆を見ると欲しくなる。意味なく欲しくなる。絵がよく分からないからだと思う。分からない絵の穴埋めとして、筆を買えば絵が描けるような意識が、どこか潜在的に繋がっているのではないか。

 平櫛田中という彫刻家が100歳に成って大量の彫刻材料を購入したという話もなんとなく似ている。長崎の平和祈念像を作った人である。あれは彫刻としては余り良いとは思えない。あと30年ぐらい作れるという安心感がないと、次の一作が作れないと言うことなのだろう。最近紙をまた100枚買ったが、これは一年分だから、まだ健全な方だろう。

 家から遠くない場所に南島博物館というものがある。古い石垣島の大きな民家にやたらに歴史的遺物というか、その周辺のものも含めて収集を限界を超えてやっているところがある。所というか、そういう人がいる。とても興味深い人間である。

 もし石垣島に来て、夜に時間があるのであれば、一度寄ってみると良い。大川という、街のど真ん中である。夜だけ「こおもり」かふぇと言うのをやっている。夜コーヒーは飲めないので行ったことはない。昼間たまたま博物館が開いていたので、入れて貰ったのだ。

 一応昼間も開いていることもないわけではないが、大抵はしまっている。博物館の収蔵品もそれは様々で面白いのだが、全く整理がされていないので、悪く言えばゴミ屋敷状態とも言える。集めるだけ集めたが整理がされていないのだ。これをカード化して、コンピュターでデーター化するのはひとりの人間の一生仕事となるだろう。

 しかも、すべてのものに意味はあるのだが、その意味は南島博物館の館長以外には分からない。特に八重山上布のコレクションはかなり貴重なもの手本になっている。それはどうも館長のお父さんの集めたものらしい。だから、親子2代にわたる収集三昧である。

 どうも館長の説明はあちこちにに飛ぶので、混乱してしまうのだが、この前館長は知事だったということらしい。ここでの知事職というのはアメリカ統治下の、八重山の統括者というようなことではないだろうかと想像している。少なくともこの博物館の家柄は八重山の中心の家系の一つダあることはたしかだ。

 すべては館長のミャクリャクノナイ話をつないで想像したことだ。この博物館の館長ではあるのだが、棒術の指南でもある。ただ門弟はひとりもいないそうだ。見るからに弱そうな感じであるが、もしかしたら名人なのかもしれない。この博物館の一隅に台所がある。これも間違いなく、無理矢理古い民家の一隅に、館長が手作りしたと思われる。そのカウンターが喫茶店と言うことらしい。絶妙な雰囲気で他にはない。

 ここでコーヒーを入れて飲ませようというのだ。そのカウンター越しに「こうもり」という名前にしようと思うがどうだろうか。と相談された。いや、こおもりは不気味だから、お客さんが来ないでしょうと、普通に相談に答えたが、次に通ると「こうもり」カフェと看板が出ていた。人の話は聞こえていないひとにちがいない。

 石垣にはオオコウモリがいる。この町中の家にも尋ねてくるそうだ。フルーツコウモリともいう。猫ぐらいある。かわいらしい顔をしている。かわいらしいクリッとした目をしているが、コウモリはコウモリである。民家に来て、フルーツを食べるのだそうだ。庭にある、マンゴーやパパイヤが狙われる。館長はコウモリかわいらしくて来るのが楽しみで仕方がないらしい。

 この博物館で収集物のカード化を誰かがしなくてはならない。首里で馬など載っていないで、是非石垣でカード化を進めてくれないだろうか。相当貴重なものが、分からなくなるだろう。読む前に「首里の馬」はそういう話なのかと思ったのだ。首里の街の記録をただ集めた人がいて、その集めたものの整理を続ける話ではないかと思った。

 それなら、集めた人の想像の出来ない面白さに触れるのではないかと。ものを集める病についてである。ところがそうではなかった。集めるという病の方ではなく、記録するという方の病だったのだ。意味なく記録を続ける。これはこれで恐ろしい世界である。

 何故恐ろしいかと言えば、人ごとではないような気がしたのだ。私の描いている絵は私の中を記録しているようなものだ。私絵画はその意味の価値はどうでも良くて、自分の中を見続けると言うことだ。首里の街を馬に乗ってスマホで記録を続ける。

 すべて戦争で焼け尽くされた首里の街である。古い町の空気だけは再現されている。谷間の多い坂の街である。無くなった街が再現されたと言うことではドイツなどにも、そういう街があった。石の文化ではないので、首里の古さは古都の古さではない。やはり首里でなければ行けない話かもしれない。戦後脈略無く街になったものを記録する。

 何故、昔を再現しようとするのだろうか。これも病の一つかもしれない。人間の病理を描くというのであれば、「コンビニ人間」村田沙耶香著も同じであった。現代は病の時代なのかもしれない。ただし、首里の馬の著者はとても健全な人だと思えた。文章が健全なのだろう。

 

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