アトリエで絵を見ている。

   



 アトリエの壁を少し改良した。描きかけの絵が見やすいようにした。座っている今の場所からは3方向の壁が見える。正面の壁に8点。左側の壁に3点。右側の壁に3点掛けられるようにした。




 14点の絵がアトリエの壁に掛けてある。天井には天窓が四つあるので、昼間であれば、天窓からの光で外で見ているのと変わらない色彩で絵を見ることが出来る。わずかな色の違いで絵は随分違って見える。

 絵は色彩、構成、調子、とあって、その先に何が描いてあるのかが出てくる。海だろうが、田んぼだろうが、どんな描き方になっているのかと言うところに、自分の何かが現われてくる。私には色彩というものが大きな位置を占めている。

 天井にはライトが25個ある。できるだけ良い光になるようなものを探しているが、やはりライトだけではだめだ。曇り日であっても外光が加わるとライトの光がきゅうに気持ちの良い色になる。


 絵は小さな釘を壁に打ち付け、そこにクリップで吊してある。絵を挟んでいる形だ。クリップはいままで見つけた中で一番目立たないものだ。これはそのタイプの中では大というサイズなのだが、小でも大丈夫かもしれない。何しろ紙が厚くて重いから、落ちるのが心配で大にしてある。

 

 その日描いてきた絵は下の台の上に置いてある。すこし出来上がってきたら、上の絵に比べて並べる。上に掛けてある絵は3枚が額装した完成作品で、11枚が描き描けのものである。おおよそ一ヶ月分の絵が掛けられている。3日で1枚くらいを描いていることになる。

 何とか一ヶ月ぐらいの間に完成と言うことになるが、絵によっては永く壁に掛かっているものもある。絵はだめだとしても完成したという意識まで持って行くことにしている。

 最近の流れでは日曜展示をしたらば、保存ダンスに格納することにしている。石垣島では水彩画を外に出したままにしておくことは出来ない。かびてくるに違いない。常に湿気がすごい。

 除湿機のある保存庫の中に、桐の水彩画保存タンスが二つある。一段の引き出しにファブリアーノの厚い紙の中判全紙が50枚入る。12段あるから、ひと棹に600枚しまえる。これが二つあるから、ここには1200枚くらいは保存できる。

 現在もこれから描く紙や昔の絵で満杯なのだが、順次入れ替えてフルイダメナ絵は廃棄して行くつもりだ。日曜展示が一回3枚として、400回になれば、すべてが入れ替わることになる。10年以上余地があると言うことだが、そのくらいは描かなければ行き着かないだろうと言う気はしている。

 このように描いた絵はアトリエでひと月あまりの絵を並べて、眺めていることになる。時には古い作品を持ち出して並べてみることもある。そして明日描く絵のことを考えている。意識して絵のことを眺めていることもあれば、他のことをしている時に、絵が眼に入りやるべきことが見えることもある。

 絵は大体5メートルから8メートルぐらい離れてみている。遠目でみる絵である。絵は離れてみなければ見えてこない。描いているときは絵の前に座り込み張り付いて描いている。描いているときは実は良く絵のことが分かっていない。

 ただ無我夢中で風景に向かっているだけだ。何をやっているかもよく分からない。反応だけになっている。絵を描く機械のようなものだ。反応だから、過去の様々な記憶でこうしたら、ああしたらと見えているものに近づこうとしているような気がしている。

 その意味では絵を意図して描くと言うことはない。いつの間にか、風景を全く見ないで、ドンドン絵が変わって行くこともある。描いている場所が変わってしまうこともある。その時の気持ちと流れで、気分のまま描いている。

 11枚の並んだ絵の中から、この絵を進めてみようという絵を持って出かける。アトリエで考えていたことをやってみる。このアトリエで考えていることとは、たぶん絵とは何かと言うことだろう。自分が絵を描いて何をしたいのかである。

 アトリエでは絵は描かないことにしている。描いてしまうと考えることでは無くなる気がしているからだ。アトリエでも絵を描く機械になってしまう。描くことに引っ張られてしまうのは避けたい。アトリエで見ているのは変化の兆しを見つけている。こういうのが良いなと思うことが蓄積されて、絵が動いて行くのだと思う。

 風景に向かい合ったときに、アトリエで絵を見た蓄積で描くのだと思う。昔やっていたことは忘れて行くのだろう。新しい獲得をしたものを中心に今見ている風景に反応している。それが何なのかと言うことをアトリエで絵を見ながら考えている。しかし今のところ正直なんだか迷っている。迷いが行けないというわけでもないが。

 14枚の絵の中で、これならまあ良いかと思えるものが基準になる。そのことがどこか頭の中に残り、その日に描く方向になっているのだろう。一日ただただ描いて持ち帰って、又並べる。すると全くおかしなことをやっている日もあれば、おっ・・これは良いぞ。と言うような日もある。

 いずれにしても、進んでいるかどうかである。この年齢になれば、日々後退していて普通である。現状維持ならすごい奴である。進んでいれば天才である。叔父の草家人がいつもそう言っていた。自分のこととなると分からなくなるのだが、何故かすこしづつ進んでいるような気がしていて、希望がある。

 これは妄想なのか。思い込みなのか。まあ明日生きて行く希望を失うわけには行かないから、この意識は悪いことではない。小学生の頃から、絵を描いてきて、ずーとインチキだったのだからひどいことだ。やっと普通になってきたと言うぐらいであるとしても、それはそれでいい。絵は自分自身のことなのだ。

 

 - 水彩画