71歳の誕生日に際して
フサキリゾートの上で続けて描いている。ミルミル本舗の南の斜面である。5枚目なのだが、明るい気分の絵が描けている。自由な感じも悪くない。水彩という材料の使い方がやっと分かってきた気がしている。これは描き出して1時間ぐらいの所である。
このぐらいの調子で、進めていって画面がまだ明るいまま終わりまで行ければいいと思っている。これが実に難しいことで、その難しさのかなりの部分は水彩画と言う紙に透明な色彩で描くという素材の持ち味に関わる部分である。
水彩画の良さを自分の絵画表現として確立することが難しいことなのだ。日本の油彩画は独自の表現法を確立した。ヨーロッパにはない油彩画の世界を構築して表現した人が居る。日本の油彩画には日本人的哲学が、絵画を成立させている。
梅原龍三郎や中川一政や須田克太の絵画である。精神世界が毅然としていて、極めて画格が高い。こうした絵のすごさは次の時代にはないことだろう。明治以降の日本の精神世界の頂点を反映させている。
今のところ日本の水彩画は、せいぜいいわさきちひろ止まりである。あるいは安野光雅止まりである。心きれいな絵ではある。絵画としての哲学が甘い。最近の人気作家となると、ほとんど絵画と言うより、装飾イラストという体にしか私には見えない。作家としての精神世界が確立されているとは言えない。
それは時代の精神が低いと言うことを反映しているのだろう。絵画批評という物が失われた。昔は新聞にも今年の日展と言うようは批評文を漱石が書いたりしたらしい。社会が哲学を求めていたのだろう。現代の絵画は提灯記事はあるが、きちっとした思想的批評は失われた。
私としては能力不足はあるのだが、やれないとしても、日本の油彩画が到達した精神世界まで、水彩画でも行けると言うことを示したい。日が暮れて道遠しと言うが、まだ諦めていない。
65歳頃から、それまでの自分を払拭することに専念してきた。こびりついていた絵作り方法をどうして忘れるか、ご破算になることを模索した。そして、69歳からは石垣島に移り、100歳までの水彩画の再出発を始めた。
私が生まれたのは、71年前山梨県の藤垈にある向昌院という小さな山寺の中二階と呼ばれる、味噌蔵の上だそうだ。おばあさんは元看護婦さん。そのお姉さんはお産婆さんだったから、母は熟練の二人に見て貰って、心配のないお産だったのだろう。その上に味噌蔵の様々な菌の中で生まれた幸運である。
母は実家に戻り私を産んだのだ。父の東京の家が、商売の家で子供が育つ環境でもないと言うことで、おじいさんがお寺で預かってくれたのではないかと思う。半分はその山の中の一軒家だったお寺で育った。東京より、向昌院が好きだったのだから、自然環境の力という物を感じる。これも幸運というしかない。
70歳の一年は充実して暮らせたと思う。絵を100枚以上描いただろう。絵を描きたくなる1年であった。それなりにこれからの30年の石垣島での絵を描く暮らしの形が出来た。石垣島での暮らしを選択したことは、これも間違いなく幸運なことであった。
石垣島の2年目が終わり、今日は誕生日である。71歳になった。少しこれからの方角を書いてみたいと思う。
70歳の後半はコロナであった。予想していたことで心の準備はそれなりにあった。鳥インフルエンザが流行したときに、今回のことは予測できた。警告は必死に発したのだが、聞いてくれる人は少なかった。専門家の警告すら聞かなかった政府である。
すでに不要不急の年齢なので、対社会と言うことでは困ることは特になおい。残念なことは神奈川に行きにくくなったことである。田んぼや畑はまだやりたくてうずうずしている。10月のイネの収穫は航空券は確保してある。できる限り行きたいと考えている。行けるかどうか心配している。
先日、石垣の方から畑をやりたいなら、農地を貸してあげると言う話があったそうだ。しかし、丁重にお断りした。石垣では農業はやらないつもりだ。やれば絵を描く生活が徹底できない。申し訳ないことだが、この後の命はすべて絵に費やさせて貰う。
体調は特に悪いところは無い。むしろ調子が良い状態と言えるだろう。体重等を記録しておけば、55キロで前後500グラムに維持している。腹囲は80センチより下がらない。タニタの年齢は42歳。フィットビットでは65有酸素運動能力。体脂肪率が19。内臓脂肪は4。来年は何とか保っているだろうか。
今年一年は八段錦、太極拳、スワイショウ、V字腹筋90秒、膝蹴り体操の室内運動を身につけた。71歳はこの運動を動禅というものに近づけたいと思う。一日の行動を動禅にする工夫である。絵を描くことを勤行としたい。夕方の拭き掃除を夜動禅としたい。何の変化のない毎日にしたい。
朝のブログも続けるつもりだ。ぼけ防止である。誤字脱字は変換違いは多々あるのだが、考えて文章を書くと言うことは一番のぼけ防止になる。ぼけてしまえば、100歳まで生きたところで絵は描けない。絵を描けないのでは生きる甲斐もない。
唯一気がかりは緑内障である。見えなくなるとしても受け入れるしかないのだが、そこで絵が終わりになると言うことが困る。先日、琉球大学で緑内障の手術をしていると言うことで、予約を取ったのだが、台風とコロナの流行で、当面那覇には行けなくなった。
実は三線はこのところサボっている。でん田楽団で集まれなくなってしまい、急に意欲が落ちてしまった。情けないことだ。一人で唄っていてももう一つ盛り上がらない。練習してみんなで唄えると思うと楽しかったのだが。何とか再開するのが、71歳の課題だ。これはコロナ次第だがなんとなく長引きそうだ。
続けるという意味では日曜展示である。15回やってみて、この公開の方法は、私絵画の一つのあり方かもしれないと思うようになった。もう少し本気でやらなければならない。ホームページの方にもきちっと撮影した絵を残さなくてはならない。
希望としては台湾旅行である。台湾をあちこち歩き回る旅行をしてみたい。石垣からは一時間で行ける。飛行機が早く再開して貰いたい物だ。これも当分は無理なようだが