八重山の稲作の歴史は先史時代から
石垣島に来たのは美しい田んぼ描きたかったからである。美しい田んぼこそ、瑞穂の国日本を表わしているものだ。田んぼを描いてみたい。この気持ちが常にあって小田原でも田んぼをよく描いていた。全国を旅行しながら美しい田んぼを探した。
修学院離宮の田んぼが一つの、日本人の思い描く理想の型ではないかと思う。田んぼ上部に人が暮らし、その下にため池があり、そして田んぼへと続く。水を回しながら、暮らしを重ねて行く。平安貴族が曲水の宴で水に浮かべた短冊に和歌を書いて遊ぶと言うことなども、水を自由に扱うとく事を表していると思っている。
沖縄本島で田んぼの無くなってしまった姿を見て愕然とした。田んぼが失われるということは、日本人にとって大変なことだと言うことを実感した。確かに多くの日本人はすでに田んぼの景色から離れて暮らしている。田んぼの景色と言っても整然とコンクリートで固められた味気ない田んぼ風景しか見たことがない人が増えているのではないだろうか。
棚田100選というような形で、各地で景観として保護されている田んぼはある。確かに美しいものではあるが、その背景にあるものが、観光であったり、自然保護であったりする。もう農業として残されているわけではないところがほとんどである。
ところが石垣島に来たところ、生きた農業としての田んぼがあったのだ。その姿は風前の灯火という気もして、何とか田んぼが生きている間に描きつくしたいと言うことを痛切に感じた。田んぼをやってきた私が、田んぼと思っているものを描かなければ田んぼの心のようなものは失われる気がした。
それが、石垣島に引っ越してくる大きな動機になった。旅行で通いながらではとうてい描くことも出来ないと思えたのだ。それ以来、田んぼがどんな空気を発しているものか、描いてきている。まだまだなのだが、あと9年描くことが出来ればなんとかなるかもしれないとおもい描かせて貰っている。それまで田んぼが続いていることを祈るばかりである。
八重山の稲作はどういう歴史があるのだろうか。余り古いことは分かっていないようだが、与那国島の稲作のことが、朝鮮の漂流した船が与那国に流れ着き戻ったときの記録が残されている。
1477年に朝鮮漂流民が与那国島に漂着する。 那覇へ送りとどけられ、 王府が朝鮮へ送還される。この朝鮮の人達が残した記録に与那国島の稲作の様子が伝えられている。韓国『成宗大王実録』という書物である。
この本によると与那国の人の暮らしは文字もなくかなり原始的なものであったらしい。しかし、稲作は水田も陸稲も行われていたとある。足で田んぼを踏んでで耕すという農法である。人力による踏みつけ代掻きに近い事が行われていたと想像される。こう言う農法は私も経験があるが、それほど大変なことではない。
その様子は台湾やフィリピンのものに近い、南方系の農耕に近いものでないかと想像されている。与那国の田んぼを見て歩いた経験でも、与那国は古い時代の形の田んぼがあったに違いないと思える場所が数カ所見受けられた。与那国島は日本の稲作を考える上でとても貴重な場所でないかと思われる。
与那国は八重山の中では稲作の先進地域であったらしい。与那国には3万年前に台湾から船で人が渡っただろうとされているから、当然文化的には東南アジアの影響下にあったのだろう。それでは稲作は東南アジアから直接学んだものか。あるいはヤマト王朝などから学んだものであるのか。この辺は今のところ判断が出来ないが、相当に古い時代にはすでに稲作は行われていたのではないかと思われる。
たとえ、ヤマト王朝から学んだものであったとしても、その実際の方法は八重山の気候に適合した稲作に変化するだろうから、当然台湾やフィリピンの稲作に近いものにならざるえないだろう。そしてこれも想像であるが、初期は陸稲品種の赤米であったと言う気がしている。
陸稲品種の赤米が島伝いに北上して伝えれ、ついに与那国八重山と伝えられたと空想している。それは紀元前のことではないかと想像したい。たぶん台湾からと伝わったと考えるのが自然だ。台湾にはかなり古い時代から稲作が伝わっていた。江南地方で水田が生まれその方法が持ち込まれる。しかし、それほどは広がらなかったようだ。何故かは分からないが。
八重山民謡に残る稲作の姿は、稲作が信仰といえるまでの重要なものになっていたことは確かなようだ。八重山の古い唄は文字の代わりに大切なことを伝えて行く手段でもあった。種とり祭や豊年祭の唄には稲作に関する言葉が沢山出てくる。稲作が信仰の対象になるためには相当長い期間が必要である。与那国島の1400年代の田んぼがすでに信仰てきなものであったらしい。
1400年代になると、南西列島は群雄割拠の時代となり、首里王朝が成立した頃には水田稲作の整備が、王家によって記録されている。それも中国から伝えられたイネ作りなのか、大和から伝えられたものかは分からないが、選りすぐれた稲作技術として水田稲作がかなり広く行われていたとみていいのだろう。
与那国には首里王朝の水田稲作は伝わっておらず、台湾からの稲作法が行われていたと考えられる。八重山地域の稲作は1400年頃までは、台湾の影響をより深く受けている。
その頃の時代には八重山地域では、水田の出来るところには水田が開かれ、陸稲が出来るとこには陸稲が作られるようになっていたはずだ。その場合、与那国、西表、石垣、小浜島などはすぐにでも水田か出来る場所が多くあったはずだし、もしかしたら八重山の方が本島地域よりも早く水田が行われていた可能性も高い。地形的にも水田を作りやすかったのは八重山諸島である。天水田もあり、湧き水田もあったに違いない。
水田が作られるようになり、安定してお米を作れるようなったのだろう。その時期が1000年頃なのか、あるいは500年頃なのかは分からないが、赤米が陸稲で作られていたのが始まりだと思う。赤飯がお祝いに炊かれるのは神事であるからだ。神事に使われるお米は赤米である。古くから伝わるお米であったからだ。
神田では赤米が作られていたのではないか。稲作は信仰に結びついていた。水が生きるためには必要不可欠である。水を手に入れることは神の意志に従うほか無かったからと考えられる。その水を管理できる力こそ田んぼの共同性から生まれた日本人だと考えている。
赤米を水田を作り始めた時期が卑弥呼の時代であるのか、大和王朝の時代であるのか。このあたりは空想するほか無いが、与那国の1400年代の農法が古い時代の農具使用に繋がっていると言うことから、先史時代から稲作はあったのではないかと想像されている。
台湾には先史時代から中国の稲作が流入している。台湾の稲作が八重山にどう影響したかも不明であるが、当時の交流の歴史から見て、八重山の稲作は先史時代から、台湾から伝わり始まっていたものではないかと考えても良いのではないだろうか。
素人の推論ばかりであるが、これから勉強を続けて行くメモである。