絵は自分の空間を表すことなのかもしれない。
新しい方向の絵が出てきた。どうなるのだろうか。この絵はまだまだダメだ。ダメな絵を、ダメだと考えた段階を公表するというのも、おかしな事だが、「ダメでいいジャン」が、私の金言だから、絵を出してみた。この絵はドンドン描いて、かなり違うことになった。
実際描いている絵はほとんどの場面でダメなのだ。いいと思えば大体の場合それが終わりになる。ダメに向かい合いなんとかならないか四苦八苦しているのが絵を描いていると言うことの普通の状態である。どうにもならないと言うことに向かい合い続けるのが絵を描くことなのだから、おかしな事だ。
すこしよくなって、ある程度納得できるようになって終わりにする。でもそれは体裁を整えてしまい、本当のダメではなくなっているにすぎない。ダメのままではどうしようもないし。ダメでなくなれば又違うところに進んでしまっている。ダメであることに耐え続ける側面が絵を描くにはある。その先にある達成感を夢見ていると言えばいいか。
絵画空間に自分の世界を構築する。やりたいのはこの感覚なのだと思う。絵は空間を表現することなのかもしれない。空間の匂いのようなものはそれぞれのものだ。不思議なもので、絵がダメであろうが、少々うまくいったものであろうが、実はこの感触は大きくは変わらない気がしている。
具体的に説明するならば、上空から見下ろしたような広い空間で、自由に空気が動きが生じているような空間の感触である。草原でも、海原でも良い。地平線まで続くような広い空間である。それがうまく表現を出来ることもあれば、ダメなときもある。
この絵画空間は現実のような空気があるような場合もあれば、全く平面的な場合もある。たぶん擬似的に作られた空間と言うより、観念的なことなのだろうと思う。私の絵は観念的なもののようなのだが、その観念が煮詰まっていないというところが実際なのかもしれない。
ところがダメだと感じている画面であっても、そこにある匂いは大きくは変わらない。それならそれでもういいではないかと思うのだが、何かがこれではないと言っている。それは自分に染みついた絵というものの意識かもしれない。そうならば捨てなければならない意識だが、向かいたい観念的な理想空間なのかもしれない。
絵がダメであると言うことを描いている画面の問題にしてしまい、試行錯誤している。しかし、ダメな理由は自分の向かうべき所の観念の曖昧さにある。どこに行くかが見えないまま、試行錯誤しているのだから、結論が出るわけもない。
自分の匂いではないという場合が、どうしようもなく重要なのだろう。自分が描いたものが自分でない。こういうことが普通にある。絵を描くと言うことの困難である。自分が引いた線が、自分が描いた色が、自分ではない。当たり前のようなことで、手に負えないことでもある。
努力して、人為的に作り出したものが自分に近づく。そして最後にはその人為や技術が消えたところに至り、自分というものだけが立ち現れる。こんな空想の元に絵を描いていると言うことなのだろう。この空想的理想は、現実の画面がそうではないと言うことを示してくれて、つじつまの合わない現実を示している。
たぶん、絵を描くと言うことは自分の空間の感触を示すと言うことだ。これは間違えでない。問題は自分と言うものが見えていないと言うことだ。ダメな自分を認められないのだろう。だから、ダメな画面を見てまだなんとかなると思うのだ。ダメでも仕方がないという気持ちには成れないものだ。
目に見えている空間は自分が生きている現実の空間である。抽象化された絵画空間ではない。自分が今呼吸をしている空間そのままでありたい。それは自分が居たい空間というのではない。自分というものの存在の位置を表しているような空間である。
言葉で何度書いてもても、それはそうなのだが、えは言葉には及ばない。言葉とは裏腹に描く都度違う世界に漂う。こんなときに、なんでおまえは絵を描いているんだ。と問い詰めた、中核のヘルメットの切羽詰まった目が、今更によみがえってくる。あの頃と何も変わっていない。答えを探している。
空間を描いていると、なぜか空間自体に手を入れて確認したいような気分になる。空間を動かしている起点のようなものが必要になる。その起点を探しているうちに、ふと空間を飛び去る鳥が現われた。もし鳥が空間に飛翔していれば、空間が自分の示したものになるのかもしれないと思えた。
あれこれやっている内に偶然鳥が現われたのだが。鳥が現われた途端に、空間の感触が変わった。現実空間から観念的な空間に変わった。空間の意味が抽象化したと行っても良い。これは何かの出発点になるかもしれないような気がした。しばらく空間と鳥と言うことでやってみようかと思っている。二週間描いている。4枚描いた。
こういうことは脇田和さんがやっていたことを思い出した。。脇田和美術館では鳥を放つと言う展覧会をやっている。内的で、静謐な空間で画格が高い。やはり絵は人間次第だと思う。それにしても、改めて絵を見せて貰うとまさに空間を描いている。
脇田和
私の絵は比べて見れば随分幼稚で初歩的である。それでも私らしいところがあるとすれば、今見ている石垣の空間に鳥が飛んでいると言うことだろう。この今見ている空間というのは、やはり誰にも代えがたいものだ。絵とは言えないような、いい加減なものかもしれないが、ともかく自分が見えているものを描くほか無いと、改めて覚悟する。
鳥が飛んでいることで、空間の意味がはっきりしてくかもしれない。それはそれで同じ堂々巡りかもしれない。いろいろ始めた。まだ始めたところで、今の状態ではどうなるものでもないのだが、一ヶ月ぐらいやれば、少し分かるかもしれない。昔もこういうことはやったのことはある。
しかし、今やるとその質は大分違うようだ。昔は絵作りと言うことになり、脇田和をどう工夫するかのような、他人の目が絵に入り込んでいた。当然今よりも見栄えは良いのだが、やっとそういう自分と関係の無いことから離れることが出来たような気がしている。
やはり、絵を描くと言うことは、自分がどこから来て、どこに行くのかを知るためなのだ。どこに行くというのは、近づいている死で終わる。飛んでいる鳥はただ、空間を飛んでいる。どこに向かうのでもなく、絵画空間を飛んでいる。