石垣島探検でパイナップル栽培の歴史を知る

   

 

 水平線に浮ぶ島影が西表島である。その手前に重なるように小浜島がある。西表の裏側のそのおよそ100キロ先に与那国島があり、台湾がある。どの島にも深い興味深い歴史がある。八重山の田んぼのことをもう少し勉強してみたいと思う。八重山の田んぼの歴史は、与那国島が先行地域のようだ。そのことは又別の機会に書きたい。

 先日、石垣青少年の家の企画で、台湾移民によるパイナップル栽培に関する勉強ツアーがあった。パイナップルの歴史と台湾開拓移住の関係の背景を遺物を通して、少し分かった。直接に台湾からの移住者からお話を聞くことはやはり、書物とは違う。

 8月1日コロナ感染が石垣島で再度起きて広がる、緊張感が高まる中、「石垣島探検」ーー名蔵 石垣島パイン産業と台湾入植者たちーーと言う勉強会が行われた。主催が青少年の家と、教育委員会である。講師の方々は八重山台湾親善交流会の方であった。私は心配なので、バスに乗らず車で付いていった。

 八重山台湾親善交流協会と言うものがある事を知った。台湾好きとしては早速入れて貰った。戦前の台湾は石垣島から見ると先進地域だったはずだ。都会に行く。就職をするとすれば台湾が多かったのが八重山の島々である。台湾に生活の拠点を移した、八重山の人も多数存在する。この歴史を学ぶことは、これからの八重山の経済地理的な方角の参考になる。

 戦前の石垣島の人たちは台湾で初めて、ビルというものを見て、エレベーターに乗ったという人が多かったのだ。街に行くという感覚が台湾にあった。台湾で日本の標準語を覚えて、都会の人になって石垣に戻ったという話もある。石垣島にとって台湾はハイカラな土地であったのだ。

 憧れの地は沖縄本島ではなく、台湾だった。那覇よりもはるかに近代化された都市が台北である。そして那覇よりもはるかに近かったのだ。大阪や東京は遠い場所で一般の人の意識には実感がなかったようだ。石垣には台湾に感謝している人が沢山居る。それは台湾の人達が石垣にもたらした近代化の恩恵である。この気持ちが台湾からの観光客が増える要因でもあろう。

 台湾から八重山へのパイナップル農家の入植の歴史の正しい理由が、今回の話で整理できた。台湾は八重山より早くパイナップル産業が盛んだった。日本にパイナップル缶詰を出荷して盛んだったという。そうした台湾の中小のパイナップル産業者を、半官半民のパイナップル一大企業に集積されるときが来た。

 植民地台湾でのパイナップル産業の近代化と言うことが背景にあったようだ。産業化近代化のために多くの台湾の生産農家や中小の工場主は、台湾でのパイナップル栽培の権利を売り渡すことになる。資金は得たわけだが、新天地を求めなければならなくなる。しかも、台湾でパイナップルに関わる権利は売り渡してしまったていたのだ。

 そうしたパイナップル生産農家の一人であった。林発氏という方が中心になり、台湾を離れ良い場所がどこかにないか調べて歩いた。そして、石垣島仁崎に来ていて試験栽培していた台湾の人から土壌がパイナップルに合うことを見つけたと報告がある。権利を譲った資金を集めて、新天地としての未開の新天地石垣島に移住を決意したのだ。

 1933年昭和8年 水牛30頭。パイン苗60本を石垣島嵩田で試植えされる。
 1935年昭和10年 パイン会社大同拓殖の募集で、60世帯、330人の台湾の人達が名蔵に入植
 
 八重山在住の台湾系住民
を次の 4 つに分けている。(金
城 1977: 217)。
①昭和 6 年ごろから石垣島の名蔵地区に大日本製糖3)の社有地
を借りうけ耕作していた入植者グループ,
②昭和 10 年ごろから,大同拓殖株式会社とと
もに石垣島の名蔵地区と鄰りあわせの嵩田地区に入植したグループ,
③明治 41 年ごろか
ら西表島に炭坑労働者として入って来たグループ
④米軍統治下の琉球政府時代に
入って,パイン,林業,養豚等の技術導入の形で入域してきたグループ ― の 4 つである

 台湾からの入植は先進技術や水牛などを駆使した農業が、開発の遅れた石垣島に進出してきたと言うことであった。そうした意味で、台湾以外の人達の石垣島入植がマラリアで廃村になったりしている中で、台湾の人はスッポンの養殖まで行い、健康に留意しマラリアさえ克服した入植であった。当時としては開拓移民と言うより、農業企業の科学的知識を携えた進出と見たほうがいいのかもしれない。

 台湾の人達の勢いと、先進性に石垣島住民の中には、石垣島が台湾人に乗っ取られるという意識が沸き上がってくる。台湾排斥の騒動なども起こる。焼き討ち騒動まであったらしい。それほど台湾農業とは格差があったと言うことと同時に、やはり生活習慣の違いと言うこともあったようだ。台湾式住宅が今も残っている。

 異民族に対する差別意識も石垣住民の中にはあったとされる。この思い出したくない歴史も、正直に話される方が居た。口にするのも辛いことだろうが、実際のことを反省材料にする必要がある。

 実際には台湾の先端農業技術は、敗戦後の石垣のパイン産業の隆盛をもたらすことになる。石垣島各地への入植の歴史はパイン産業の普及で救われることになる。パインを作れば工場で買い取ってもらえた。そうした実績の結果台湾の人々に対する、感謝と評価と言うことに石垣島民の意識が変わって行く。

 どれくらいの人が石垣島に来たかというと、確定は出来ないらしいが1000名ぐらいの人が、石垣島に移住したらしい。こうした移住の歴史は石垣島には繰返し起きている。本島から、四国から、と多くの人が新天地としての石垣島入植を繰り返している。

 カジキ漁の人達。戦後開拓の人達。マラリアで住めない島であった石垣に苦労を重ねながら、定住し石垣の各地の部落は戦後最大の人口を記録している場所が多い。その多くの人が台湾からの先端農業技術のパイナップルに救われたのだ。

 この歴史は石垣島の人々の気質に大きく影響をしているように感じる。多くの人の中にある気持ちが、自分たちもその祖先はこの島にやってきた人だという意識である。波照間から来たという人がその誇りを持ったまま暮らしている。与那国の素晴らしさを語る人も多い。

 宮古から来たという人にも良く会う。こうした歴史があるから、いま老人である私のような者が、移住してきたとしても温かく受け入れてくれるのだ。最近越してきたという人も実に多数お会いする。その象徴的存在が台湾の人達ではないだろうか。石垣がよりよい島になるよう、協力して暮らしたい。

 石垣島のパイナップル産業は戦時中空き缶が入手出来なくなり途絶える。戦後再開された缶詰工場は海外からの缶詰輸入によって衰退する。アートホテルの場所には大きなパイナップル工場があったそうだ。

 その後、石垣島では生食用のパイン生産に変わる。この生食パインの味の良さが、評価され近年三回目のパインブームと言えるのかもしれない。個の味の良さは実は石垣島の農家の栽培技術が深く関わっている。缶詰用パインよりも、2倍の手間暇が掛かるとされている。

 しかも、フィリピンの価格の安いパインに負けないような味を作り出さなければ、石垣島のパインが市場で評価はされない。現在でもあちこちのパインを食べさせてもら言っているが、その味は大きく異なる。なるほど美味しいというパイを生産できる農家は限られている。

 今後サトウキビが衰退して行くことが想像される。そうした中、バナナ、マンゴー、パインの、燻蒸なしの生果物は今後評価が高まるはずだ。どのように赤土の流出の少ない栽培法を確立するか。あるいは有機栽培の果物生産の研究など取り組むべき事は多いのではないだろうか。
 

 - Peace Cafe