藤井聡太棋聖の将棋のすごさ

   

 

  名蔵にある調整池。熱帯睡蓮が咲いている。橋の上から絵が描ける場所だ。車を止めていても迷惑を掛けない場所でありがたい。なかなか車の中から水面が描ける場所がなかったので、良い場所を見つけたと思っている。誰が植えたのか睡蓮がとてもいい。

 藤井棋聖が誕生した。羽生永世7冠が登場したとき、羽生将棋はマジックと言われた。それまでの将棋と変わったことを見せて貰った。それまでの将棋とは内容が違うのだから、それまでの将棋の観念が強い人には、羽生将棋には勝てなくなった。同じように藤井将棋はそれまでの将棋を超えた、新しい時代の将棋である。

 将棋がある程度理解できて良かったと思う。アマチア5段である。2人の天才がそれまでの常識を覆す姿をある程度理解して見ることが出来たのは幸運である。将棋というゲームに革命を起こしたのだ。ゲームの世界で起きたことだから、この革命の意味はある程度は分かる。たぶん、世界はこのようにそれまでとは変わるときがあるのではないか。

 第二次世界大戦。原子力発電所の事故。新型コロナウイルスの流行。私は3回経験したと考えている。第二次大戦の敗戦4年後に生まれたが、まだその影響下にある社会という意識がある。それまでの文明が革命的に変化するときであった。その変化を感じながら成長した。

 藤井聡太棋聖の登場は文明の変化ではないが、ゲームの上ではあるが天才がそれまで尊重され、学ばれていた価値観を覆すところを見せて貰った。羽生7冠が最後だと思っていたのだが、新しい考え方がそれまでの考え方を否定するところを再度見せて貰うことが出来た。

 羽生将棋や羽生7冠の考え方は実に面白いので、わざわざ講演会に出かけたことがあるほどである。天才というものを見てみたかったのだ。最前列に座ってどこが違うものなのか、良く見せて貰った。絵を描く目で天才の違いが見えるのかどうか試させて貰った。

 藤井棋聖の登場はIT将棋が人間を超えたからである。囲碁の方がITが早く人間を超えた。囲碁が中国や韓国や台湾より弱くなったのは、日本がIT技術で後れをとった結果である。すこしづつ日本の囲碁も新世代が、ITを研究して強くはなってきている。ゲームといえども世界の動きと連動しているのは確かなようだ。

 明治時代以降長らくの日本の囲碁は世界で圧倒的な強さであった。囲碁は棋道と呼ばれる、東洋のタオ・道であった。ゲームに何か人格形成の手段のような意味づけをするところが東洋的である。タオというのは中国の考え方である。強い人は人間も完成する。囲碁の手段にはそうした行き方をも考えさせるような言葉が多い。唐代にはすでに囲碁には囲碁十訣・・・王積薪と言うものがある。面白いので添付しておく。

    1 不得貪勝 むさぼり勝とうとしてはならない。2 入界宜緩 敵の境界に入るには穏やかであれ。3 攻彼顧我 敵を攻めるには味方をかえりみよ。4 棄子争先 石を捨てて先手を争え。5 捨小就大 小を捨てて大に就け。6 逢危須棄
 危機になれば棄てることが大事である。7 慎勿軽速 足ばやでありすぎないようつつしめ。8 動須相応 敵が動けば対応しなければならない。9 彼強自保 敵が強ければ味方を保て。10 勢孤取和 勢力が孤立しているときは和をとれ。

 囲碁の考え方に見えるが、実は戦略の問題にしている。将棋は囲碁よりも遅れて、将棋道になったわけだが、ただのゲームとはされてはこなかった。私が熱中した小学生の頃も、将棋ばかりやっていることを怒られてはいたが、将棋で思考能力が訓練されるという、気分が周囲にもいくらかあった。ベーゴマの熱中ほどは怒られなかった。

 藤井棋聖の登場は将棋をゲームであると言うことを明確にしたと言うことだ。IT将棋が人間よりも強くなった以上。実は将棋道の人生訓のようなことを考えていたら、勝てなくなったということになる。日本の囲碁が遅れたのは、この点である。まだ日本の旧世代は人生訓のようなものをひきずっている。

 藤井将棋は簡単に言えば、IT将棋に一番近いので強い。こう言ってしまえば、つまらないことのようだが、そうではない。人間が新しい発想法を見つけたのだ。ITの登場によって、未だかつて無い考え方を人間が見つけた。それまで人が挑戦して破れなかった壁を、ITの発想を学ぶことで身につけた人が、藤井聡太だ。ここが画期的だ。

 ITを人間がどのように活用すればいいのかを示している。学問でも芸術でも利用できるところは大いに利用して、新しい文化を切り開けると言うことを示している。人間にはまだ先があると言うことのような気がしてくる。もう人間はIT将棋に勝つことは出来ないだろう。しかし、ITを利用して、いままでの人間が到達できなかった領域に行けるのかもしれない。

 藤井将棋は先入観とか、流れとかを断ち切れる。自分という人間の癖を持たないのだ。過去にとらわれずその場面の判断が出来る。それは大山将棋のように相手顔色によって、手を変えるようなことが無い。誰であれ自分の最善だけを見つけることが出来る。

 これは絵で言えば新しく絵を描くと言うことが、いつでも無から始められると言うことである。しかもそこまで描いた流れのようなものにもこだわらないで進めることが出来る。常に描いたその場面を完成画面を想定して見ることができると言うことだろう。これは絵においても必要な見方だ。

 自分を捨てて、自分の中にある能のIT機能だけに委ねて描けるのか。そんなことを目ざしているようでもある。自分の絵画と言うものだけは捨てた。自分の中にある見えている世界だけに向かおうとしてきた。果たして藤井式は絵にもあるのだろうか。藤井棋聖の将棋はそういうことまで考えさせられるものだ。

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