コロナを契機にして人間は変われるか。
風蘭。風蘭が Neofinetia (ネオフィネティア)属から Vanda (バンダ)属になったので、バンダ ファルカータ 余り成長は良くない。良くないときに花が咲くとそのまま枯れることがある。良い香りの花とされているが、この個体は匂いはしない。
コロナウイルスの蔓延を契機に人間の暮らし方は変わった。旅行のようにしばらくは元には戻らないものもあるだろう。従来の形の経済のままでは衰退をする。しかも次に始まる経済の形には、数の増加と言うより、個別的なものが何か生まれてくることになる気がする。人間の距離の取り方は個別的になる。
人間が親しく関われないことはとても辛いことである。集まって酒を飲めないというのはひどいことだ。一期一会である。茶道の家元では茶会は自粛しているのだろうか。こう言うときこそ、大茶会を開催するのも、茶道のあり方を示す姿かもしれない。命を共にして生きる茶道というのも、あるのではないか。
それが出来ない自粛という変なワクのある社会になったのだ。いままで良いとされてきた文化が悪いこととして、否定されている。心を開き、裸になって人と付き合う。こういうことは悪いことになったのだ。人を見たら、コロナと思え。石垣のまち中で歩いているとそういう目でハットされることがある。旅行者に見えるからだろう。歩いているときにはマスクをしない。歩いているぐらいでは感染はさせないししない。
コロナは自粛が解除され、東京では感染者が増えて、第2波ではないかと言われている。感染者数の目先の変化に惑わされることは判断をまちがう。あくまで死亡者数を見ていればいい。これが10名を超えずにずーと落ち着いている。この状態であれば、自粛は必要が無い。
不要不急の老人であるのだから、自粛で別段何が困ると言うことはないが、ハットされて、白い目で見られるのは面白くはない。だから、自粛して町中は歩かない。もう人を見ると、コロナ警察のスパイかと見えてしまう。人間はこんなおかしな社会に慣れなければならない。
人間は末世に生きていると言うことだ。人間界がどれだけ辛いものかの説明から仏教の教えは始まっている。生老病死を受け入れると言うことが、お釈迦様の思想である。この先の世に、すばらしい世界が作れるかもしれないと言うことが、努力する原動力であったのだが、今のところ努力した結果この末世に至った。まだまだ修行が足りないと言うことだろう。
人間が生きると言うことはどうにもならないことだ。すべてがむなしいことである。そのむなしさを明らかにする。そして受け入れて、諦める。そう思って改めて、コロナ後の世界を想像してみる。個としての自覚以外にないと言うことに気付く。自分の安心立命を他に求めても仕方がないと言うことである。
「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」全共闘闘争の根底にあった標語だ。大学の美術部の壁にも書かれていた。個の確立と自立だった。大学闘争は思想闘争と言うだけではない。既成の権威に対する服従の拒否、不合理に対する隷属の否定、これらが全共闘運動の主要な方角である。
高橋和巳の言うところの、「これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。」孤立無援の思想。
どこか青臭い思想であるが、みんな若く必死だった。あのさきの無いような世界が戻ったような気がする。人間は死ぬ存在である。その自覚の元に今何をすべきか。そういうことを、突きつけられたのだ。若い学生だった私は当然その場にうずくまっていたわけだが、今ここに至ると、すべての人が死というものをどこかで、ヒヤーと感じて目が覚めたのだ。
人間は間違いなく死ぬ。それまでに何をするかだぞと、コロナが告げている。新宿のホストのお兄さんがテレビで言っていた。「だってホストで死んだ人はいないから、大丈夫だよ。」まさにこれだ。ヒヤーと死を感じながらも、別段どこ吹く風と暮らして行くのである。「これでいいのだぁー」生きる人間だ。
これから日本の経済は深刻な状況に陥る。それは米中以上になるに違いない。その時自分はどうするかだろう。コロナによる外国との交流制限もあるが、それ以上の問題は日本は実は遅れ始めている。新しい産業が生まれない。既産業は陳腐化を始めている。そこにコロナが登場したのだ。
不思議なことに東日本大震災は第一の予兆だったのだ。人間はこのままではまずいですよと、天が方角を示した。ところが日本人は変わることは出来なかった。元のいた場所に戻ろうと「がんばろう、にっぽん」と頑張るだけであった。そして、残念なことに日本は元いたところに戻り、世界の流れから遅れ始めた。
困ったことには世界の現状から遅れてしまった自覚が政府にも国民にも不足している。政府はあくまでアベノミクスは成功しているという、根も葉もないことを言い続けるぐらいの無能さだ。負けを認められないから、次がないのだ。アベノミクスはアベノマスクだ。小さすぎて、遅すぎる。何度でも使えるが、効果は薄い。
これでもかという形で、コロナが世界を襲った。人間はこの二回目の天の指し示した方角をも生かせないだろう。コロナは人間に温暖化。環境汚染。人口爆発と都市集中。このままではダメだという、天は示したのだ。たぶんそれでも人間は気付くことはない。頑張って元に戻ろうとする力は強いのだろう。
アベ政権になって以来既得権益、つまり昔調和世界だけが尊重されることになった。そのために新しい産業が芽生えなくなってしまったのだ。例えば、循環型エネルギー分野では、原発事故を経験した日本はエネルギー政策を転換する大きなチャンスであった。ところが、明らかに循環型エネルギー産業は世界に遅れてしまった。
原因はアベ政権の既得権擁護の姿勢にあるのは明らかだ。原子力発電産業の保護姿勢であった。何しろアベ氏はあの事故後に、原発輸出を主張したのだ。こんなにセンスの悪い方針は、アベノマスクと一緒である。あのときの愚策は何の成果もなく終わった。この間違った方針に対する、一言の謝罪も反省も聞いたこともない。
コロナでも、アベ政権は日本モデルと自慢げである。確かに守る能力は高いかもしれないが、新しいものを切り開くという能力は危うい。大胆な発想は出来なくなっているのではないだろうか。未知への挑戦をする冒険心が失われ始めていないか。
アメリカの1国主義も、中国の国家資本主義も、独善になればなるほど自分の首を絞めることになる。そんな当たり前のことを、両国とも見えなくすることで自国民を操ろうとしているに過ぎない。日本はこの両国の独善に巻き込まれない自立が必要と言うことだろう。
天のもたらした2つの予兆。大震災とコロナ。それでも気付くことが出来ない日本人には、かなりの確率で第3の天の采配がある。それが何かは分からないが、次の崩壊は手に負えないほどであるだろう。政治は極めて頼りない。それぞれが個として対応するほか無いのであろう。
自給自足の暮らしである。化石燃料など無くとも、人間は道具だけで自給自足は可能だ。100坪の土地と一日1時間か2時間の労働で、人間は食糧を確保できる。これは神奈川県山北町の悪条件の場所で、実践して可能だったことだ体験である。この原点に立ち戻る事はできる。
そして一人の暮らしが出来るようになったときには、次の段階としてみんなでそれをやってみる。この原点に立ってみることではないか。次に来るだろう、さらなる苦難をおもうとよほどの覚悟が必要である。四苦八苦である。「ホストで死んだ人いないから、大丈夫だよ。」耳に残っている。人間は大丈夫の方を向いて生きるのだ。天がこのままではダメだと教えてくれても、どこ吹く風と流されて行く。