生き方の変え方 ーーー私の場合

   

 

 石垣のすばらしい雲である。遠くに見えるのは屋良部半島である。日本一美しい村、崎枝が左の付け根辺りにある。崎枝からの眺めもすばらしいのだが、名蔵アンパル越しに崎枝を見るのも実に美しい。光の方向としてはこの角度の方が色がよく見える。同じ場所でも、位置を変えると随分違う物だ。

 位置を変えながら描いていて、いつの間にか両方での見え方が一枚の繪に入ってくることがある。つまり、絵を描くというのは今見ているものを描いているのだが、記憶の中にある凝縮されたものを同時見ていると言うことがある。それは幼い頃脳風景の記憶を含めてのことだ。

 30代後半に生き方を変えた。競争社会から逃げ出した。と言うか脱落した。早めに脱落を認めたことは今思えば幸運だったというか、逃げて良かった。仏教的に言えば、諦めたわけである。不条理が自分の中で明らかに出来たので、諦めることが出来た。

 そもそも絵を描く生き方をしようとしたのだから、その時から社会のレールからは外れていたはずだったのだが。おかしなことに当時の日本の社会には、絵描きになるレールのような物が存在していて、知らぬままにそのレールに乗ろうとしていた。

 コンクールで受賞して、絵が売れるようになるという道である。当時でも公募団体で会員になったとしても絵で食べて行けない状態ではあった。それでも、有名な公募団体で会員になるというのも、絵描きのレールの一つとも思われていた。私も必死に大公募展に出したこともある。落選したり、入選したりの状況で、到底その会の会員になることすら出来そうもなかった。

 絵を売って暮らすというのは余りに不合理に見えた。家が商売人だったから経済のことはよく分かっていた。絵を売って暮らすほど、割に合わない物はないように見えた。他のことなら稼ごうと思えば稼げるのに、何で売りにくい絵を売らなければならないのかが分からなくなった。残念ながら、生きることの正面突破が出来ない。それなら迂回して生きるほかない。

 絵描きになりたいわたしが、競争の中に必死に競っていた。芸術論ではなく、評価される絵画が話題になるような、状態であった。絵描きが生き残るレールの評価が私にはデタラメ以外の何物でも無かった。画商や企業がコンクールを開催して、登竜門にしていた。コンクールで評価される絵画の描き方のような物が、いつの間にか広がっていた。そんなことは絵を描くと言うことと全く違うとしか思えなかった。

 金沢で絵を描いていた頃には想像もしていなかった世界に、東京に戻り紛れ込んでしまった。そもそも人間として生きるための絵を描いていて、それを続けて行く以外に考えもしなかった。それは美術学校に居なかったことが幸いしていたのだろう。芸術としての絵画をただただ模索していた。何故絵を描くのかと言うことを哲学的に、思想的に模索していた。それは当時の美術部の周辺にいた人がそういう刺激をくれるひとだったからだと思う。

 医学部にいた先輩の松木さん。今でもあの存在を尊敬をしている。文学部の先輩の元木さんは毎日新聞の記者になられたが、若く死んでしまったが、出会った人の中で最も頭脳明晰な方だった。工学部の先輩の般若さんは人間の存在感が圧倒的な人だった。その優しい感触に生き方を教えられたと思う。

 そして、同級生だった理学部の坪田さん。ぶつかり合いながら絵を描く人生を教えて貰った。彼は今金沢で現代美術の画廊をやっている。相変わらず難解な人だ。みんなどちらかと言えば、その分野ではどこかおかしな人なのだろうが、私には生き方を模索する人間としての同志だった。対峙できる人がいるということは、成長には不可欠である。

 金沢からそのままフランスに行き、ただただ自分の絵を求めた。東京に戻る。東京の絵の世界は驚くべきものであった。入学試験のように、絵を競争していたのだ。どうすれば公募展で評価されるか。どうすればコンクールで入賞できるか。まるで予備校のような競争の世界だった。結果的にはそれは何も理解も出来ないままだった。レールから見れば実に要領の悪いままに落ちこぼれた。

 それでも10年間はその中にいたのだと思う。まさに失われた10年である。結局の所絵が描けなくなって、山北で開墾生活からやり直すことになる。あのとき東京暮らしを切り上げたことが、人生の分岐点であった。描くべき物が分からなくなったのだ。無理に描こうとすると吐き気をもようすようになってしまった。今でも描くべきものがわかったわけではないが、コンクールや公募展で評価されるような絵の方向とは明らかに違う。

 当たり前すぎることだが、絵は人と競争するような物ではない。絵は商品ではない。絵は自分の生き方である。自分自身が自分の描いた絵を、これが私の生き方だと示せる物であれば、それでいい。今はただそういう方角だけを目指して、描いている。

 少し残念なことは大して見栄えのない自分だと言うことに向き合うことになる。見栄えがしないが、まあ受け入れるほか無い。自分であると言うことはささやかな物であるから、情けないことであるようだが、どこか安心できる。自分という生をあきらめたのかもしれない。

 開墾生活に入るには、大きな転換点であったのだが、当時はそれほどはには思っていなかった。どう生きたいのかを考えてみて、やりたい方向に向かっただけである。自給自足の生活に憧れが強かった。子供の頃の向昌院の暮らしを思い描いていた。肉体としての自分の体だけで、自給自足が可能なのかどうか、試してみたかった。自分という人間を確認したかった。

 それは鶏を飼いたいと言うことや小屋を作りたいと言う子供の頃やっていたことに繋がっていた。条件として、機械は一切使わない。道具の範囲なら使ってもいいだろうと考えた。車を使わない生活。シャベルとのこぎりぐらいである。水は山北駅で汲ませて貰った。20リットルのポリタンクに汲んで、歩いて1時間かけて開墾地まで上った。それが自給自足を切り開けるかの前提条件であった。食料も持っていた。それを重いとはと思わなかったのだから、元気だった。

 大きく暮らし方が変わった。しかし、それほどのこととは思わず、ただ自分の肉体を試してみると言うぐらいだった。まだ、世田谷学園に勤めていて、生活は出来るから、ある意味気楽なところもあった。いつか、自給自足が出来るようになったら、世田谷学園を止めようと考えて、妙に前向きな気分でいた。結局世田谷学園では30歳から37歳ぐらいの7年間働いたことになる。その暮らしを感謝している。

 始めて見た自給自足の暮らしが余りに面白く、そちらにのめり込んで生活をしていた。絵描きになるんだということはほとんど忘れることが出来た。もう絵を止めようと考えた。それで油彩画を止めた。決意するつもりで、絵の具や筆を廃棄した。絵を描くこともほとんど無くなり、わずかに水彩画で周囲の植物を描くぐらいになった。

 この水彩画を何気なく描いたことが次の生き方に繋がった。自給自足で生きる。そこから見えたものを描いてみよう。それが自分らしい絵の描き方だと思うようになった。絵描きという職業は諦めて、好きな絵を描く生き方。それで最後の個展を文春画廊で開催して終わりにした。絵描きとしての生前葬と銘打った個展である。

 自給自足の挑戦への転換は考えてみれば重大なことであったはずなのに、大きな決意もないまま始めていた。そして始めていたら、もう日々が面白くなり、この冒険をなんとしても成功させるのだという気持ちになっていた。母が元気で一緒に面白がってやってくれたことも、力強いことだった。親というのはありがたいものだ。

 母は向昌院で生まれ育ったのだから、自給自足の暮らしは身についていた。戦後の相模原での開墾生活も体験していた。山北の暮らしは3度目の自給自足生活だったことになる。私にしても鶏を飼うことは子供の頃から常にやっていたことだ。鶏を子供の頃から飼っていた経験が、結果的には自給自足の成功に繋がった。

 自給自足の生活が自分の体力で可能だった。この思いがけない結果は天啓のように感じた。この自信はその後生きる上で大きな物だった。自分一人で出来たことを、どうやってみんなの自給に出来るのか。そのことがその後あしがら農の会に繋がった。あれから、30年である。今はあしがら農の会が気持ちよい場として、継続されることに協力できればと思っている。

 

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