新型コロナウイルスと文明の方角の問題
新型コロナウイルスが流行して、急にペストのことが思い出されているらしい。確かにペストの流行は都市化した文明の問題だろう。今回の感染症の流行は人間の暮らしの巨大化と言うことが有ると思っている。その意味で文明の問題である。
新型インフルエンザが2007年に流行して、高病原性鳥インフルエンザが養鶏業をやる人間として大きな打撃になった。それ以来新型ウイルスに関して学んできた。そのことは折に触れて、このブログに警告として書いてきた。もちろん今読み返してみると幼稚な物であるが、大きくは間違っていなかった。
素人の幼稚な学びではあったが、中国発の新しい感染症が起こると言うことを感じて危機を表明してきた。必ず人間に大打撃を与える。どうすれば新型感染症を抑えることができるかを、考えてきた。文明の方角を変えるほかないという結論である。
2011.3.11東日本大震災が起きた。そして原発事故である。これもまた文明の方向を間違えた結果だと考えるようになった。人間の暮らしが何かをこえている。原発を必要とするような豊かさはおかしいと思うようになった。
人間がよかれと思い、より豊かな暮らしを求めて競争をしている。資本主義と言う物の宿命なのかもしれない。この進めている合理化や巨大化の先には人間の限界を超えてしまい起こる崩壊が待っていると思えてならない。
このまま行けば、いつか人間の手に負えない感染症が出現すると思えて仕方がなくなった。中国に行き、自然養鶏の指導をいくらかさせて貰ったことで、その思いが強くなった。中国の人は規模の巨大化と言うことにおそれがない。止まることがない。
大規模化の限界を超える。経済の原理に従い、合理化の先にあるものは巨大化。自然からの隔離。化学合成物質の利用。競争に勝つためには限界を超えた巨大化がある。そのとき生み出される物が新しい感染症ではないかと思えた。
中国は一方に野生動物を食す原始的な文化がある。そして、一方に今まで人類が経験したことのないような巨大畜産が登場している。この2つが混沌の中でぶつかり合っている。食文化が両極化している。
一部の富裕層と大多数の貧困層という両極も日に日に深刻化している。高病原性鳥インフルエンザの出現はそうした、文明論的なところに原因がある。文明を変えなければ、人間はいつか手に負えない感染症におびえることになる。たぶんそれは中国発になるだろう。こうした結論に至った。
鳥インフルエンザの出現は養鶏を止める要因にもなった。人のためになればと思い続けている養鶏業が地域の人から疎まれるような存在になったのでは、耐えがたい物があった。そうしたことを乗り越えて養鶏を続ける気持ちにも成れない年齢でもあった。
大規模畜産という物が、人間と自然の健全な関わりを超えてしまった。そのことが都市化がペストを生んだように、大規模畜産が人間を滅ぼすような新しい病気をもたらすのではないかとおそれて、ささやかだったかもしれないが警告を発してきた。
素人のこんな予測が何になるものでもないのだが、この暗いろくでもない予測をしたことが今起きている。新型コロナウイルスとなって起きている。何の準備もない日本政府は全くどうにもならない対応を繰り返してしまった。政府が悪いと言うより、文明の方角を変えない限りダメなのだ。
今回の新型感染症は前段階と考えた方がいい。致死率が低くて良かった。SARSくらいの致死率で、武漢で発生した感染症ほど感染力が強ければ、世界人口が激減するほどのことになっただろう。このまま文明の方向が変えられないのであれば、手に負えない感染症の出現は必ず又起こるだろうと思う。
ワクチンで対応するとか、治療薬の研究というような、対処療法的なことではどうにもならない。人間の暮らし方を変える意外解決策はない。文明の方角を正すことだ。それはつらいことかもしれないが、違う意味で愉快な結果になることも考えられる。
今回のコロナウイルスはその序奏であると思った方がいい。私が自給自足を試す生き方をしたことも、そして70歳になって石垣島に引っ越したことも、すべてそうした文明観に従ったことである。
人は自給自足で生きることができる。一日1時間の労働と100坪の土地があれば、可能なのだ。それは私の挑戦した30年の体験である。機械力を使わず、化石燃料を使わず、挑戦して実現したことである。
ごく普通の私にできたことである。誰にでも可能なことなのだ。今でもそんなことは不可能だと思う人がいる。私が身をもって体験したことを生かしてもらいたいと切実に思っている。
ささやかな物であるが、「発酵利用の自然養鶏」「小さな田んぼでイネ作り」(農文協発行)にその自給自足生活の一端を記録して有る。実践してきたことなので、参考になるはずだ。このブログにも体験を記録してきた。分からないことがあれば、できる限り説明したいと思っている。
自給自足に失敗した人も知っている。科学的な考え方が不足した人だ。そして、重要な要素が共同と言うことができない人だ。一人でやる自給は2時間かかる。それがみんなでやる自給は1時間になる。これも何十年も記録して分かったことだ。
石垣島を見ても自給自足をやりたくなるすばらしい場所がある。若ければ間違いなく又自給自足生活に入っただろう。残念ながら70である。これからできることは次に自給自足生活を目指す人に手助けをすることだと思っている。
つないで行かなければならない。幸いあしがら農の会では協働の活動が続いている。私も動ける間は参加しようと考えている。もうギリギリである。私の命のことではない。文明のことである。もう崩壊の音が近づいている。
それでも大きな崩壊まで方角は変わらないことだろう。仕方がないことだ。落ちるところまで落ちなければ再生はできないのかもしれない。この文明の転換期では少数のわかり合える人で助け合う以外にない。まず一人でやってみるのはいい。私もそうであった。それができたら、みんなで心を合わせることだ。