石垣島自然誌 安間繁樹著

   



 崎枝湾の浜辺。遠くに見えるのが、カピラ半島。

 散歩のコースで時々立ち寄る山田書店。すばらしい本に出会った。「石垣島自然誌」安間繁樹著。この本があるのは気づいていたのだが、この本は題名通り、自然誌の本だと思って開いてみなかった。
 この本はいつも絵を描かせて貰っている崎枝の話だった。中学校の先生として赴任した安間先生と崎枝の13人の中学生の話だ。この崎枝中学の安間先生はイリオモテ山猫発見以来の研究者である。

 安間先生はイリオモテ山猫の研究をしたくて、何が何でもと石垣島崎枝の中学校の教師になる。しかし、一年して研究者になるためにはこのままではむりだと考え、東大の大学院に戻る。そしてイリオモテ山猫の研究で博士になる。

 現在も研究者として活躍中の方である。学者という存在は実にすばらしい。ひとつの視点という物を確立している。安間先生は若さのままでたらめのようであるが、大切な確信を守っている。目的に向かいまっすぐに生きると言うことが伝わってくる。

 文章が抜群にうまい。最近の文章でこんなに良い文章を久しぶりに読んだ気がしている。淡々としていて自然な文章がいい。環境すべてに造詣が深い。研究者の確立した視点という物がすばらしい。何度も読めば良い影響があるかもしれない。

  石垣島自然誌という形で、崎枝の中学生13人と新米教師の話である。1970年の石垣島の空気が伝わる。いつか、13人の中学生だったどなたかに話を伺う事ができればと痛切に思った。私はここまで踏み込んで絵を描いているだろうかと反省した。

 石垣島のことが一段深く理解できた本であった。それは安間先生という科学者の視点があるからだ。崎枝の自然と人間の魅力が良く伝わってくる。こういうことが分からなければ、私の絵も意味がないと思う。あらゆる点で私ごときの文章より、一段上の文章である。
 石垣島の崎枝に戦後開拓で来た人間のことが生き生きと伝わってくる。直接そのことが描いてあるわけでは無いが、その子供達の空気でいろいろ書かれていないことが伝わってくる。石垣島の一冊と言うことになれば、迷うことなくこの本をおすすめしたい。

 崎枝の人びとは戦後開拓で入植した人達である。石垣島がまだ開拓に希望を燃やしている最後の時代。開拓はやむを得ずマラリアと闘いながら行われた。生きることと切実に向かい合ったと言うことなのだろう。安間先生が石垣島に訪れた一年間は、1970年の石垣島崎枝である。崎枝の人口が一番多かった時代。入植して20年が過ぎ、崎枝で生まれ育った子供達が中学生になっている。

 自身のことを思い出せば金沢にいた頃のことだ。もう50年も前のことかと思う。大きく時代の移り変わる時だった。希望に燃えていたが、時代が悪い方向に進むだろうと言うことも自覚できた時代だ。沖縄県では本土復帰を前にした希望の時代でもあるのだろう。

 安間先生は沖縄県の教員の就職先を得るために、つまりイリオモテ山猫の研究をするために、沖縄の戸籍を得ようと戸籍上の養子になる。沖縄県民でなければ、沖縄の教員には成れなかったからなのだ。この発想がすばらしいではないか。イリオモテ山猫のためならすべてを投入する。

 私が開拓を始めたのはその20年後のことになる。開拓をいくらか経験のあるものとして、とても親近感がある。日々の肉体労働は厳しいものがあるとしても、気分は明朗で意気揚々としている。自分の肉体で自分を支えるという実感は人間を鍛えてくれる。

 そんな開拓の子供達との出会い。安間先生は今私の住んでいる字石垣の家のすぐそばに住んでいたようだ。そこから崎枝にバイクで通う。私が今日も描きに行く崎枝への道を、バイクで飛ばしていたようだ。私も同じ崎枝小中学校の校門前を毎日通る。

 崎枝の当時の中学生は崎枝で生まれた開拓民の子供だ。そしてこの時代はやっと開拓に成功して希望がはち切れそうだったはずだ。開拓を成功させると言うことは生きる本当の自信が持てるということなのだろう。

 生きる自信が感じられる。それは安間先生にも、崎枝の中学生13人にも。たしかに金沢にいた時代は何でもやれるかもしれないという希望を持っていた。それは明るい希望ではなく、暗い情熱として抱えていた。日本が希望を失ったのはあの後当たりだ。日本の暗い予感の時代が始まる。

 崎枝でも安間先生が東京に戻った翌年大干ばつに見舞われる。1971年八重山では3月から9月初めまで少雨が続き、191日間全く雨が降らないという信じられないような干ばつが起こる。草も枯れ、水もなく、牧牛の餓死も始まる。「さとうきび」は、その大部分が立ち枯れた。
 農作物が壊滅的な打撃を受ける。やっと道を切り開いた開拓移民の希望が崩れ始める。離農が続くことになる。人口減少が始まる。その話は名蔵の稲作農家の方から伺ったことがある。それで名蔵ダムができたと言われていた。ダムが完成したのはそれから、28年経ってからのことである。人口減少はその後も続き今に至る。

 歴史を振り返ると悲しいことが限りなくある。そういう悲しさが生きる実感としてこの本から伝わってくる。今崎枝に行くと透明に澄み渡るような明るさがある。その外面的な南国の明るさの奥にあるものが、この本を読むと見えてくる。良い本に出会えた。

 この本には何か不安なことが書かれているわけでも無い。笑いに満ちた新米先生の一年間の話である。良い時代の話である。だから余計にこの先の様々に起こるだろうことを想像してしまった。

 先日崎枝の方と話していたら、一番困るのは大学がないと言うことだ。こう言われていた。大学に行くことで子供達が戻らなくなると言われた。高等教育の通信教育化はできない物であろうか。放送大学は確かにあるが、もう一歩制度を進めるべきではないだろうか。

 どこにいても教育が受けられる状態を作る。これは感染症が広がる時代では考えなければならないことでもないだろうか。地方には地方の独立を確保することになる。各大学にインターネット部門を設ける。インターネット東大に入学する。レポートの提出。年に2度試験で出かけて行く。試験のレベルは東大生と一緒でいいだろう。

 安間先生は崎枝を離れ東大大学院生になるが、西表島中心の暮らしに戻り、7年間研究生活をしたようだ。すばらしい人だ。こういう生き方こそ、教育なのではないだろうか。きっと崎枝の中学生はこの大切なことを学んだに違いない。
 安間先生は最後に崎枝小中学校の50周年記念祝賀会で、崎枝中学の校歌を歌う。30年も経ってから、1年しかいなかった学校の校歌が歌える物だろうか。たぶん本当に歌えたのだ。それくらい生きることに熱中した1年だったのだ。

 中学の教師である生き方のままに、イリオモテ山猫の卓越した研究者でもある。どの道も通じている。きちっとした絵が描けるかどうかは、自然養鶏や小さな稲作にきちっと向かい合えたかどうかと言うことなのだと教えられた。やる気が出てきた。いつか崎枝の絵を私の目で描きたいと思う。

 - 石垣島