石垣島で一番の場所崎枝・屋良部半島

   



 屋良部岳中腹から、名蔵アンパル方面の写真。下に少し見えているのが、車エビの養殖場。その海岸ではいつも漁船が5,6隻、漁をしている。小舟である。この海の色は私の下手な写真では出ていない。この海を何とか絵に描いてみようとしている。

 美しい海という以上に、何か海の炎が立ち上がるような姿が見える。炎と言えば違うと言うことになるが、命の海というようなすさましい世界がある。そのことは言葉化できない。まだ絵にも描けない。

 石垣島で一番美しい場所は屋良部半島だろう。少なくとも絵を描く者にはそういうことになる。半島の中央には216メートルの屋良部岳がある。この尾根筋には林道がある。半島の大きさは長さで3キロほど、幅で2キロほどの小さな半島である。付け根が一番細くなり、1キロほどの幅だろうか。その付け根の鞍部を中心に崎枝の集落はある。

 半島の西北側には崎枝湾、東南側には名蔵湾がある。半島の先端には御神崎(うんがさき)がある。うがんざきは海の祈りの場でもある。古い歴史があり、民話なども残されている。灯台があり、海の要衝でもある。

 御神崎は絶景の地で、夕日が美しいと書かれているが、石垣島ではどこでも夕日は等しく美しい。確かに御神崎の海も美しいが、これも又石垣島では等しく海は美しいから、特別にと言うことはないとおもう。私には御神崎の絶景というような場所を描いても何だかなぁー。という感じである。

 御神崎から西側を眺めると、見える対岸がカピラ半島のある底地ビーチである。カピラ湾がその半島の向こうである。カピラ湾は石垣で一番の観光名所とも言えるが、比べれば屋良部半島から、崎枝湾や名蔵湾のほうが面白いし、美しいと思う。

 崎枝湾側の海は光の入り方からも、湾の底の砂の色からも色が美しい。名蔵湾側の海はどうしても濁っている。光に対して逆光で見ると言うこともあるが、名蔵湾への赤土の流入がすごいと言うこともある。このままでラムサール条約第一号の名蔵アンパルは大丈夫なのかと思う。

 屋良部半島が魅力的な理由はこの美しい場所での暮らしが見えるからだ。カピラの場合は観光地であり、余り生活感はない。ただ島や珊瑚礁がキレイというのであれば、オーストラリアなどにはもっと大規模なところがいくらでもあるだろう。

 屋良部半島の付け根にある集落が崎枝の集落である。ここは別荘地的な雰囲気ではあるが、元々は農業や漁業に暮らす人々の集落である。半島の付け根の狭い尾根部分に集落ができている。風が強い場所だ。

 歴史的には1500年頃にはすでに集落が記録されている。1707年には人口が300人である。1771年の明和の大津波の時には急速に増えて729人の人口があった。それが崎枝での最高の人口の記録である。1924年大正13年に崎枝は廃村になる。マラリアの流行で人の住めない場所になった。

 崎枝の昭和33年当時の人口は56戸314名とある。現在の世帯数は56戸で同じだが、人口は128人。一家族3人までには届かない。しかし、家はいつも建てられているし、別荘地としては石垣で一番の場所だと思うので、人はいくらかづつは増えて行くのだろう。

 島は多くの場合、江戸時代に最高の人口を記録していることがある。自給自足であれば、島のほうが暮らしやすいと言うことがある。しかし、石垣島全体は今の人口が、過去最高になっている。

 1940年になって又崎枝に人が住み始める。多くの人が住み始めたのは戦後開拓である。戦後本島や宮古島から、あるいは外地からの引き上げの人が石垣島には、戦後開拓民として多数の人達が開拓の入植をした。崎枝もその戦後開拓で人が住むようになった。

 たぶん何かの理由があってこの小高い丘に集落ができたのだろうとおもうが、まだ分からない。この集落には小中学校もある。御嶽は少し集落から離れた、崎枝湾側の降りていった場所である。もしかしたら、古い時代には海沿いに集落があったのかもしれない。そして一段高いところに御嶽が有ったという想像はできる。

 崎枝は、多良間諸島からの開拓者が多く、竹富島、黒島から移住したお百姓さんによって作られた集落ということだ。沖縄本島、本島周辺の島々、福岡などから移住してきた人々もいた。こういうことが石垣島の面白さだ。元々の石垣島の人は半分もいないのだろう。

 名蔵湾の沖合にかなり大きな船が停泊している。不思議で仕方がなかったのだが、あれはクリアランス船というものだそうだ。直接台湾などに入港できない船が名蔵湾沖合で、いちど入港してその資格を得て、台湾などに行くらしい。

 崎枝にはトウマタダーと呼ばれる田んぼがある。このたんぼがなんとも素晴らしいものなのだ。私には日本一の田んぼである。たぶん相当に古く開田されたものではないかと思う。松の木がある田んぼと言うことらしい。

 戦後開拓で始めた田んぼには害虫の発生がすごくて苦労したらしい。それで冬の間に田んぼの周囲のススキはらを焼き払って虫を減らそうとした。ところがその火が山に延焼し半島の樹木は澤沿いを除いてすべて燃えてしまった。

 そこで松を植林した。その松が今ではそこそこの大きさに育っている。これも崎枝の景観を美しくしている。何故松を植林したのだろうか。ただ松を材として植林したわけではないので、山林としての管理をしていると言うことでもない。

 松の間には八重山ヤシやへごの木などが混成している。ありとあらゆる植物が松の中に旺盛に茂っていて、山の中に入ることを遮っている。それは少し恐怖を感じさせる。やはり牧畜は盛んだ。かなりの面積が牧草地になっている。又サトウキビの畑もかなりある。そして名蔵湾沿いには田んぼである。御神崎にも田んぼがある。田んぼがいつまでも耕作されることを祈っている。

 集落を見下ろす位置の急斜面にはバナナの畑がある。この畑がすごい情熱のこもった畑なのだ。山の斜面を、合理的に開墾し、水を上手く回し、牛糞なども自然に堆肥化されるような工夫がなされている。そして、眺めがよく見えるようなテラスのような台地まで作っている。

 2000坪の面積だそうだ。元土建業をされていた崎枝の方が開いた物だ。お話では海洋博のころ、沖縄本島で建設業を始めたそうである。それが一段落したころ、石垣で農業開発が始まるというので、その農業土木の仕事のために石垣に来たそうだ。

 そして、仕事の合間にこのバナナ園の開墾をやられたそうだ。30年の時間がかかったそうだ。今は安定したバナナ園になっている、棚状に連なる随所にバナナ園を作り上げる情熱があふれていて感動した。人間はすごい物だ。

 一番上に大きなため池がある。山の斜面を切り崩し、山に降った雨が一度そのため池に溜まるようにしてある。バナナ園の表土が流されないために、水は地表を流れないように作られているのだ。その水がバナナ園のあちこちにある水槽に地中を通りに送られている。

 バナナは風に弱いから、この海沿いの畑で風にやられない工夫も又すごい。扇芭蕉を上手く配置して、風を遮っている。ため池を掘った土は一番眺めが良い場所を張り出す台地のために使われている。この場所は石垣島で一番眺めが良い場所と言える。

 私はお願いしてその場所で絵を描かせて貰っている。ありがたいことだ。幸運である。トウマタダーを描くために作られた空中テラス。この空中テラスにタントで上がることができる。たぶん地上100メートルほどだろう。怖いような場所だが、ここで一日描かせてもらえる幸せは限りないものがある。

 ここ2月と3月の2ヶ月が田んぼの水が一番美しい。この間に充分に絵を描きたい。


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