石垣島は私の虎の穴
車の中で描いている途中の絵である。この後大分変わった。海辺の水田の風景だ。海の色を何とか描こうとしている。すごい海の色なのだ。この後変わったのは海ではなく、空と遠くの半島のあたりだ。たいていの場合、そのものではなく、それ以外の物に原因がある。
それでもできたという感じにはならず、諦めた感じで終わった。そしてもう一枚描いてみた。そちらの方がまだいいところまでいった。描く位置を少し変更ことが良かったかもしれない。
ここは初めての場所だ。いぜんからかきたいとはおもっていたところだ。サトウキビ畑があって、海のほうが見えなかった。サトウキビの収穫が終わったので今はよく見える。そういう場所はもう一カ所有る。そこは工事をして見えるようになった。
「虎穴に入らずんば、虎児を得ず。」と言う言葉がある。不思議な言葉である。『後漢書』班超伝に有る言葉だそうだ。西域である匈奴やクシャーナ朝を攻めて後漢の勢力域を広げ、西域都護として長く西域を守った班超のことを意味している。
虎の子供がよほど価値のあるものだったのだろうか。そうではない。虎の最も大切な我が子である。相手の大切にしているものを得るためには、自分を犠牲にしても相手の懐に飛び込まなければならないと言う意味だろう。相手が一番大事にしている領土を奪うために敵地に暮らしたと言うことになるのか。感心した話ではない。
孤児院出身のタイガーマスクは虎の穴という、悪役レスラーの養成機関で過酷な訓練を受けた。そのプロレスジムはそもそも、イギリスにあったスネーク・ピットジムのことだ。プロレスラーの神様、カールゴッチやビルロビンソンの在籍した、ヘビの穴養成所のことだ。
原作者の梶原一騎さんが虎穴に入らずんばと絡み合わせて、タイガーマスクのプロレスラー養成機関を虎の穴と改名したと思われる。確かに、カールゴッチのレスリングはヘビのような寝技が多く、執拗に絡んでくるものだった。ヘビより虎の方がいい。ヘビではかっこいいマスクが作れない。
58歳近くなってからの藤原喜明との試合をテレビで見たが、勝つことはないが負けることもないレスリングだった。いわゆるストロングタイプのレスリングである。
アントニオ猪木の卍固めは、日本で指導していたカールゴッチ直伝である。カールゴッチは力道山や吉村道明と引き分けている。当時の日本で英雄の力道山と引き分けるということがどれほど大変なことかが分かる。カールゴッチは当時はドイツ人と言うことだったが、ベルギー人である。アメリカで悪役レスラーを長年やった。当然だろうが、無冠の帝王と言われた。正義のアメリカ人にやられるドイツ人というわけだ。
プロレスの話を思い出して長くなってしまったが、虎の穴は敵地のことである。虎の巣に入って、虎の子供を連れ出すなど正気の沙汰ではない。しかし、そのくらいの覚悟で物事には挑まなければダメだと言うのは正しい。
私にとっての虎穴はどちらかと言えばモグズリ込む絵を描く穴蔵である。だからタントの中が虎の穴。虎の穴の中で、ひたすら絵を描こうと言うことだ。と言うことは石垣島は虎の穴ということになる。石垣島では絵を描くだけに生きている。
ありがたい虎の穴だ。つらい修行の穴ではない。絵を描くこと以外ほとんどない環境で暮す事ができている。きれいさっぱりである。これから12年虎の穴で絵を描くことができれば、何者かに変貌できるかもしれない。虎に変貌すると言えば、中島敦の山月記を思い出す。が、私の修行は愉快な虎の穴だから、変身してもパンダぐらいだろう。
穴に中に閉じこもると言うことでは、井伏鱒二の山椒魚も思い出す。出られなくなる前に、時にはもぐずり出てなければならない。穴の中で山椒魚のように頭でっかちになるのは怖い。水彩人や農の会に出て行くぐらいがちょうど良いのかもしれない。
毎日絵を描きに行きたいという心境はどういう物だろうかと思う。かなり技術的な興味に動かされている。このところは海の色を表す方法を繰り返し探っている。明るい青から緑の変化がどうすれば出るのかをいろいろやってみている。
自分の絵を探求しているというようなことよりも、目先の様々なやり方のほうに気をとられている。自分の絵に直面することが怖くて、眼前の技術的なことに逃げているのかもしれない。そうだとまずい。
それにしても水彩画の表現は奥深い。全く新しい方法に気づかされる毎日である。そういうことがあったのかと思う。しかし虎の穴で学ばなければならないのは、表現方法で解決できることではない。生き方に違いない。
70歳の今になって水彩画の技法の探求に入ってしまうのは、私の絵の描き方が技術を避けてきたからだと思う。技術から入る人はこういうことはないのかもしれない。やりたいようにだけやってきて、技術を学ぶと言うことは避けてきた。今更のことだ。
石垣島に来て、新しい色にで会っている。新しい色を出すためには新しい方法を見つけなければならない。出ない色ばかりで困るのだ。それはやっと色が見えてきたと言うことでもあるなと思う。
旅行できて描いていた頃は自分の色で描くことができたような気になっていた。ところが、同じ所を何度も描いている内にこれでは違うと言うことになってきた。新しい色を見つけ出さない限り描けない。そこで新規に水彩画をやり直しているようなじたいだ。
その意味ではまだまだというところで有る。あの色に、あの感じに、ほど遠いのだ。あの空の色に、あの海の色に、あの草の色に、あの森の色に、なんとしても近づきたいと思う。
もう一息の感じまではきている。それでついつい絵を描きに行きたくなる。家で並べて眺めていると、やってみたいことが出てくる。家では描かないことにしているので、あれをやってみようという課題が見つかる、又虎の穴で出かけて行く。