日本の農業を再生する道

   

 遠くに田んぼが光っている。この田んぼから湧き上がる力は、絵でなければ描けない。

 日本の農業は危機に瀕している。政府が力を入れるのは、国際競争力のある農業と言うことになっている。ますます小さな農家は未来の展望を失った。そして農業を辞めて行く。その結果は中山間地の地方集落の消滅を促すことになっている。

 政府は地方再生などと政策としては掲げているが、具体的には地方が疲弊して行く方向だけが推進されている。大規模機械農業と競争できない、小さい農業は消えて行く。中山間地の農業は国際競争力があるわけもない。大規模機械農業にも生産性で劣る。海外に輸出できるような企業的農家は、競争条件の悪い中山間地のyとうな場所を選択しない。

 日本の農業が消えようとしている。これをかろうじて支えているのは、ご先祖から受け継いだ農地を守り、子孫に残そうという百姓の生きかたである。それがいよいよ失われつつある。そして、孤立した小さな農家は消滅するしかない状況になっている。

 小さな家族農業が消えていった後、大規模の企業農家が農地を維持できる場所はまだいい。しかしほとんどの日本の農村は経営的には成り立たない。産業としての側面だけではますます日本の農業は縮小されてゆくだろう。

 自給率が現在かろうじて37%となっているのは、確かに企業的農家の成長がある。輸出できるような果樹栽培や畜産等も大いに頑張り、食糧自給率を維持している。

 その一方で中山間地での耕作放棄地の増大は歯止めがかからない。それが地方社会の消滅の危機に拍車をかけている。それは日本の環境にも大きな影響を与えている。里山と呼ばれるような山は手入れがされない状況である。雨が降ればたちまちに土砂災害につながるような山になっている。

 日本の環境を一番形成してきた稲作が危うい状況にある。お米を食べなくなっていると言うこともある。それは日本の食文化にも影響を与えている。食糧自給率はこのまま行けば、バランスの悪い実際の食糧自給とは異なる、見かけの自給率に代わって行く。

 日本の農業は危機的状況はこのまま行けば取り返しのつかないところまで進む。例えば、小さな農家が大豆や小麦を作るとする。取り残されたような場所で作るのであれば、補助金の対象にはなりにくいだろう。手作業中心の農業と言うことになれば、当然国際競争力所ではない、非効率なものになるだろう。

 そんな小さな農家が維持される条件は、継続している人の意地だけのようなものだ。もう自分が生きているだけでいいのだからと続けてくれている。そうした農業を息子や孫にさせるわけにはいかないだろう。自分は頑張れるが、もう後継者では無理だと考えている。

 日本の農業をここまで継続してきたのは、こうした地方に定住する小さな農家の方々の努力であった。それがかろうじて2020年の今でも里地里山を維持している。それも、残念ながら風前の灯火と言うことだろう。しかし、こうした里山的な暮らしを見直さざるえない世界が近づいていると、見ている。

 農業破壊は別段日本だけではない。世界中で広がっていることだ。農業大国であるアメリカでも状況は同じだ。アメリかを支えてきた普通の農家が企業的農家殿競争に敗れている。追い詰められた農家は最後の手段として、トランプに投票したと言われている。

 アメリカの農家の窮状は農業というものは価格競争だけでは維持できないと言うことを意味している。アメリカほど国際競争力のある農業大国ですら、国内の農地の荒廃は進んでいる。

 まして日本のようにそもそも競争条件の劣る条件の中山間地の農業を維持するためには、地域全体を総合的に考えなければならない。農業の競争力だけでなく、地域を維持するために必要な形を見つけなければならない。

 農業は食料を生産する、人間の暮らしの最も基本となるものである。これを他の産業と同じに考えてはならないのだろう。自動車の輸出のために、農業を犠牲にしても仕方がないというわけにはいかない。

 自給のための農業生産は貿易とは別に考えて行く必要がある。自然環境を含めた日本という国をどうすれば維持して行けるかを、総合的に考える必要がある。地方の社会がどうすれば維持できるかの中に、農業を加えて行く必要がある。
 感染症の流行をみると、人間の暮らしが近代文明の限界に近づいたと言うことだ。原発事故でも目覚めることのできなかった人間は、今度は感染症というもので、現代文明を見直さざるえなくなるのだろう。

 現在の農業政策は農業に効率だけを求める結果、競争力のない小さな農家を廃業に追い込んでいる。そのことが地方の社会を崩壊させ始めている。この崩壊している、地方社会の暮らしこそ、もう一度日本人がとり戻さなければならない暮らしである。

 日本農業はどうすれば再生できるか。それは市民が農業を自給として行うことだ。市民の自給であれば、労賃が生じない。たとえ生産性が低くとも自給農業であれば続けることができる。

 農業を他の産業とは別に考えなくてはならない。農業の自給体制は外国が口を挟むことではない。国の安定には不可欠なことだ。世界中どこの国も自給をする特に主食に関しては自給は権利であり、義務である。

 日本はこれから中クラスの普通の国になる。それは日本がアメリカに次いで二番目と言われた頃から見れば、衝撃ではあるが。これから当分の間、世界の三〇番目くらいの国に落ち着けば良しとしなければならない。充分それでありがたいことなのだ。

 そうした国が堅実な国作りをするためには、自給農業は重要な要素になる。どれだけ産業が変化して行くとしても、食料生産だけは安定的なものにしなければ、小さな国として危ういことになる。軍事力以前に食料生産の安定こそ、国の安全保障になる。

 また、自給的な農業は生活というもののに安定をもたらす。日本人というものを形成してきた、伝統的稲作を通して日本の文化を再認識することができる。日本人の暮らしに安定をもたらす。

 具体的な方策としては、農地法を変える。農地の利用を自給のための市民にも可能にする。農地のなかに市民利用可能な新しい線引きをする。市民利用のための施設なども,公的に建設をして行く。ロシアやドイツにある自給農園の制度の研究をして取り入れて行く。
 

 

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