安倍首相は任命責任を痛感して、何をするのだろうか。
石垣で一番美しいブーゲンビリア 最初は真っ白で始まり、徐々に薄い赤が差してくる。
安倍首相は大臣の辞任が相次ぎ、その任命責任は自分にあり、責任を痛感しているととしている。それは当たりまの発言である。これで、様々なことで責任をとっての辞任が、9名居るそうだ。その姿を潔いよく清い態度だと、絶賛する国会議員もいる。おべっかが過ぎるだろう。それは責任が行動に表れた時潔いということになる。
アベ氏の任命責任を痛感するの発言は、国会に記録が残るだけで33回あるそうだ。他では49回というのもあった。よくも数えたものだが、長く総理大臣をしているので、9名も任命に値しないための辞任である。それでは、任命を間違えた責任をアベ氏はどのようにとったのかとつい考えてしまう。
ふつう9回も間違った任命をすれば、総理大臣をやめるものだろう。しかし、責任を取った行動が何か表れたことがあるかといえば、何もない。薄っぺらな言葉が躍るだけである。
国民の一人として、どう行動するのか期待してきた。総理大臣は責任を痛感して、頭を剃るとか、せめて頭を下げるとか、申し訳ありませんでしたとか、私もやめさせてもらいますとか。何かありそうだが、頭を下げたこと一つないのである。
何でだろうかと思っていたら、実はアベ氏は国会で、間違った任命をした責任の取り方を何度も、答えているのだそうだ。安倍首相の“任命責任の取り方”は「国民の負託にこたえ、政治を力ずよく、しっかりと前に進めること」となるのだそうだ。任命を間違えた責任のために、憲法改定を力ずよく進めるということになるらしい。
よくある話だが、責任を感じてなお一層業務に励みます、というやつだ。これはふつう単純な言い逃れというべきだろう。先日の関西電力の賄賂事件での社長と会長の言い草とまるで同じである。3億2千万円も懐に入れておいて、業務に邁進されても困る。
総理大臣の本来の責任の取り方はどういうものだろうか。やはり退任するしかない。萩生田文科大臣は大学共通試験の英語外注問題で、受験生に迷惑をかけた。これは確かなことだろう。自らの「身の丈」発言で、今まで文科省が積み上げた、英語試験を外注する計画を一日にしておじゃんにしたのだ。
ふつうならば、省内からこんなとんでもない発言をする大臣はいらないということになるのではないか。少なくとも、省内には何年もかけてこの計画を進めてきた人間がいるのだ。英語を重視して、小学校にまで正課として英語を取り入れたのが、文科省の方針だ。
もちろん大反対ではあるが、英語教育が日本の教育では重視される流れがある。特に英語の読み書きではなく、話す力がなければだめだという考えのようだ。実はこの外国語を話すということは、脳の働きからみるとなかなか奥の深い部分のからみがあると想像している。
脳の動きに大きな影響がある。子供のころから自然に身についた、言葉とは別に、新たな言葉を身に着けようというのだ。これは脳の特殊な能力なのだと思う。私の頭はこれを受け入れることができなかった。受験英語の読み書きは、何とかなったのだが、会話となるとまるでダメだった。
ナンシー大学の外国人講座のクラス分け試験を受けたらば、ほとんど理解ができないフランス語であるにもかかわらず、真ん中のクラスになってしまった。当然下のクラスでなければならないのだが、読み書きの方で、そうなってしまう。それでカンニングをしたのだろうといわれて、下のクラスに落とされた。カンニングしてどうなる。筆記試験ならそれなりなのである。
その後もまるでできないので、これはダメだと先生から教えようがない言われてしまった。フランス語講座で教えていたフランス人の先生が、優秀な六鹿さんという人の友人だったので、私の希望のないひどい状況を教えてくれたのだ。
発達障害には算数障害とか、漢字障害というものがあるらしい。たぶん外国語障害というのもあるはずである。私はそう言いたいくらい外国語となると、頭がグルグルしてしまったのだ。
英語が会話できないとだめだという義務教育はおかしいと思う。英語が話せなければ企業で役に立たないというのはわかる。義務教育というのは企業で働くためのものではない。日本人として生活するための基礎知識を学ぶ場である。文部省はこの点で完全に取り違えている。
小学校では英語などやめて、稲作を正課にしろというのが持論である。5年生になったら、一クラスが自分たちの田んぼをやるのだ。種まきから、収穫まで行う。この方が日本人には必要な教育である。そういう1年間のカリキュラムを作らせてもらえないだろうか。教科書は「小さな田んぼのイネづくり」である。
話があちこちに行ってしまったが、アベ氏の口が薄ぺらだということだ。まともな人間は責任を取る気などないのであれば、責任を痛感するなど言わないものだ。言えないものだ。ところが、身の丈が高かった安倍氏はこんな薄ぺらで生きてきてしまったのだ。
おそらく、アベ氏はさきがけであるのだろう。せめて最後であってもらいたいとおもうが、こんな口だけの総理大臣の先駆けのきがして怖い。萩生田文科大臣は衆議院議長の交代を発言したことがある。そもそも議会制民主主義を、尊重しない人間なのである。アベ氏の減らず口を支えている人の「身の丈」発言である。これは本質の問題なのだ。
いよいよ、本丸の憲法9条問題が浮上するだろう。憲法を議論するのも、9条を議論するのも必要なことだ。しかし、憲法を改定する以上、憲法の拡大解釈は今後行われないという状況が必要である。
簡単に内閣法制局の局長判断で憲法が揺らぐようでは、おかしなことになる。憲法裁判所を作ることが、憲法を議論する大前提である。それが無いのであれば、憲法9条があるにもかかわらず、実質軍隊が存在する拡大解釈になる。
憲法を改定して、あるいは加憲をして、さらに曖昧にするという手段がある。時の内閣の都合で、いくらでも拡大解釈できるようにしてしまうと言うことになりかねない。
憲法9条は軍隊をどうするかの問題である。国の安全保障の問題である。まだ日本国が試みたことのない、国際問題を武力を使わないで解決する道を具体的に、議論して貰いたいと思う。そして、武力行為の前に、どういう平和的手段を講ずるかを、内閣や政治の義務として、明記して貰いたい。
アベ氏は任命責任を痛感して、憲法改定に邁進しかねない。それを国民の負託に応える道だと、口にしている。止めなければならない。憲法裁判所を条件にしなければ、議論しても無駄だ。
文化の日に、つまり憲法が発布された日に、国民として改めて憲法を大切にしたいと考えた。