小田原の家の継承

   

死ぬまでの予定している時間は最大で30年。祖父は自分の葬式の準備の為に庭の木の刈込や、片づけをして死んだ。わざわざ高い木に登って木を切った。もう落ちても心配ないと言って笑っていた。僧侶としての死に方を示そうとしたように見えた。82歳だと思ったが、木に登れたのだ。私の場合このまま石垣で暮らせることが分かった。こうなれば小田原の家をどうするかである。小田原の家は築100年のいまだ、しっかりとしている立派な家である。宅地としては周囲を入れると300坪。平地部分で200坪はある。幸い、Wさんが今後を考えてくれることになった。何でも助けてもらっている。小田原に来れる間は農業をやろうと考えている。その時にはこの家に泊まれるよう一部屋は残したい。田んぼ、タマネギ、小麦、大豆、このくらいは続けられるのではないかと思っている。6回の行き来になるが苦にしないことにした。水彩人などで出てくる都合もあるので、ちょうど良いことになる。当面の目標は75歳までの後5年くらいである。あと5回も田んぼをやれる、なんて幸運なのだろう。今年の様子ならば、5年は持つかもしれない。
小田原の家は、雑種地や農地が隣接していて、全体で1000坪ぐらいあるのではないか。宅地以外の部分は現在、みんなで利用し管理をしてくれている。有効に使ってくれているので、当面大丈夫だと思っている。ここにはソーラーパネルが設置してある。月々10万円を超える売電が出来ている。将来この収入を農の会の機械小屋の管理や運営費に充ててもらえればと考えている。あと数年で、建設費の元が取れるのでその後は私のものではない。農の会の仕組みは、つぎの時代に必要なものだと思っている。この先ますます厳しい時代になる。競争の激化と、日本経済の衰退。自給的に生きる意味が重要になる。農の会のような仕組みで、暮らしを寄せ合う必要が出てくるにちがいない。すでに、25年継続できた仕組みである。農の会は誰か個人が運営してきたものではない。仕組みが自立して動くようにみんなで考えてきたものだ。もし仕組みが合理的で意味があるものであれば、つぎの時代の灯火になるのではないか。他の地域でも参考になるような継続可能な組織。仕組みなのだから、どこでも誰でも始められるはずだ。人間というものは、やりたいことをやって、それを喜んでくれる人がいると、本領を発揮できるものだ。自分一人のことでは、本当の人間力は出ない。
今も、農の会の代表の根守さんは有機農業塾でその本領をますます発揮している。この活動もこの時代に要求されたものである。先日も、この活動を3,4年先には冊子にまとめようと話した。必要な時に、それを支えてくれる人が登場するという事が、農の会の仕組みの良さである。登場しなければ活動自体がうまれない。農の会はやりたい人がやりたいことができる仕組みである。簡単に言えば、利己的なだけの人は繰り返しかかわってくるが、やがて離れてゆく。得が無くなれば消えてくれる。人間は適切な場に出会うことで本領を発揮する。その相乗効果が農の会の仕組みではないか。家のことは農の会とは関係がない。木挽きの人が建てたらしい。それを次々と受け継いだだけだ。次に渡せれば、こんなに良いことはない。ただWさんにも都合があることだから、自由に考えてもらうようにお願いした。先ずは当面の管理という事で引き受けてくれた。機械小屋や、ソーラー発電があるから、全体を見てくれている人がいないと、上手く回らない訳だ。その上、厄介にも私が時々現れる。
石垣に送るかもしれない荷物をこの部屋に集めた。
この家を含めて誰かにバトンタッチしたいというだけである。うっとうしいかもしれないが、邪魔にならないように小田原に来たいと思っている。そろそろ、小田原の一人暮らしも1か月半になる。一人暮らしにも慣れて、ベットの上で、ブログも書く。ご飯も食べる。実に快適である。私のような個人主義の人間が、あしがら農の会に出会う事で変わることができた。自分のために頑張ることで、みんなとやれるという状況は自分を磨いてくれた。一人で何でもやりたいという事で、山の中で暮らした。それが今は大勢の仲間と田んぼをやっている。家のこともなんとなく方角が定まった。Wさんとの出会いが、石垣島への移住の決意でもあった。バトンの連携である。400メートルリレーで日本チームは銀メダルである。バトンのうまさが走るタイムを補っている。一人一人が普通でも、バトンタッチが上手であれば継続できるかもしれない。

 - あしがら農の会