作品がなるということ。
「なる。ということ」
テレビの俳句バラエティーが面白い。夏井先生という人の添削が目玉になっている。口の汚さで盛り上げているようだ。様々な分野の人が俳句を作る。余りに陳腐な俳句とは言えないようなものが出てきたりして盛り上がる。下手な俳句の作者が案外の人だったりするのを面白がる訳だ。番組としては意外なおちゃらけタレントが良い俳句を作るというところも見せ場になっている。結局良い俳句とはどういうものかという事になる。こうして夏井先生の俳句の手直しというものを見ていると、作品を作る基本が極めて技術的という事がわかる。この指導法はカルチャーセンター方式なのだろうか。良い俳句作品を作り上げる作法を指導している。よくあることなのだろうが、ここに大問題がある。私絵画においては、最も遠ざけなければならない技術的制作法なのだ。日本文化の伝統の中では、作品は作るのではなく、「なる」ものである。なるはほぼ生まれるという事に近いが、作者が作るのではなく、自ずとなるものが作品という意識である。
芭蕉でも、藤原定家でも、句はなるのであって、作るものではないとしている。作るという人為を嫌うのである。自分というものを磨いてゆくと、作品はおのずとなるというのである。これが日本人の作品を作る在り方であった。ところが教室というところでは、何か作品の作り方を教えなければならない。例えば絵が上手になるにはデッサンの勉強からでしょうか。などという人がよくいる。そういう人の期待に応えて、絵を描く手順などある訳もないのに、絵らしきものに近づく技術の指導をせざる得ないのではなかろうか。困るのはそんな指導をしている内に、指導者が出来上がったものを作品であると思い込んでしまう事にある。どれほどの作品であろうとも、すでにあるものは芸術の目指す所ではない。未知の世界に踏み入り摸索する結果、その人の作品というものが見つかるかもしれないだけのことだ。そもそも大学で絵画を指導するというようなことが不自然なことだ。世界的な芸術家で美術大学に行った人などまずいないだろう。
学ぶべきものがあるという事にすれば、お稽古の範囲の人は扱いやすいだろう。デッサンの技術を教えれば、見たとおりに描くなどという事は指導ができる。描くたびにお手本に近づき上手になる。上手になれば勉強したことになる。しかし、そんなことは作品を作るとこととはは全く異なる。異なるだけでなく、作品がなるためには害悪なのだ。上手になればなるほど実は作品が「成る」。という世界から離れてゆく。それが上手は絵の外という事だ。その昔、本気で絵の批評をしたら、この歳になって人間が良くないから、良い作品が出来ない等と言われるとは思わなかったと、怒り狂った人がいた。これには困った。いわゆるパワハラと言われても仕方がないことであった。絵を否定しているつもりが、いつの間にか人間を否定していたのだ。しかし、それ以外に絵の批評など出来るのだろうか。もっと言ってしまえば人間を磨くために絵を描いている。自分のことであれば、それでいいのだが、人の絵をそういう視点で批評すると大変なことになる。良い絵を描く人はやはりその人がすごいのだ。少なくとも私にとっては凄い人なのだ。
そいう人に成るために、絵がなるために自分を磨いている。自分を磨けるような絵のかき方をしたいと考えている。上手なお手本のような技術を磨けば磨くほど自分の世界から遠のいてゆく。上手な作品を作る手順というものが、自分の作品が生まれるための障害になる。自分に必要な技術は、自分の世界を探る過程でしか見つからない。それ以外の技術というものは出来れば身に付けない方が間違いが少ない。他の人が開発した技術のようなものは、自分にとっては上手そうに見えるだけにほとんどの場合障害である。マチスのデッサンも、ゴッホのデッサンも、中川一政のデッサンも、いわゆる上手なデッサンとは領域が違う。極めて創造的なデッサンである。作品が誕生するという事は、全く自然のことで、自分の意志というようなことが紛れ込むことは極力避けるほかない。ただ、作品が生まれるのを待つだけである。やれる事といえば、どう日々を生きれば人間を磨くことができるか。これだけではないかと思っている。弓の名人が弓を見てこれは何に使う物ですか、と聞いたという世界。これが東洋的な作品の誕生の姿なのだろう。