絵が「なら」ない理由
絵を描いているにも関わらす、大した絵にならない理由にいくらか気づいた。一つは自分の絵をそこそこのものだと思っているからのようだ。もう一つは絵の行き着くところが、どうも違うらしい。改めて考えてみれば、自分というものをこの絵の程度の安いものと思い込んでいるという事でもある。安い自分でも自分であればいいという気持ちがどこかにあるに違いない。これでは人間としても、その結果の絵としてはだめだと自覚が出来ない。客観的に見れば大したものではないくらい、当たり前のことなのだが。そこがどうも自覚できないような、思考の罠に入り込む。恥ずかしいことだが、どこかでうぬぼれながら生きているという事になる。絵というものがかなり自分と切り離せないものだから、ついついそれなりののものだと思いたいという心理が捨てきれない。その冷静さを欠いた、自己陶酔の思い上がりのようなものが、自分の絵を進める障害になっている。至らない絵を自覚して、自分の努力にしなければならないはずだ。
絵は自分でなければならない訳でここが難しいところである。自分であるだけでなく、人間共通のものになり得るのか。絵がなるという事と、自分という人間との関係である。個人というものを突き詰めたところにある人間というものは、他の人間にとって意味があるものなのであろうか。もちろんそう思いたいものだ。弓の名人が弓を忘れるという事の最後に、夜空を通る渡り鳥を見上げると、鳥が落ちてしまう。それは何か。完全に忘れても残っている何か。無意識の領域の問題。絵を描くという事が無意識の物になり得るのかという事なのか。自分を突き詰めるという事で、無意識の自分に至り、その無意識の自分に何故価値があるのか。確かに自分にとってはそれが目標であるかもしれないが。他の人間にとってはどうでもいいことである。とすると絵というものが、客観的な作品であるという事とは関係がないことになる。それでも、描くという行為が無意識の領域にまで至った人間の、作り出したものが人の心をを打つ。そういう事が東洋的な、作品のなるという事なのか。
私が私であることで、何か全体的な何ものかに成り得るものなのか。私という個が人間全体としての一人としての意味。そういう意識をあまり持たないできた。絵も私が良ければよいのであって、それ以上でも以下でもないと思ってきた。しかし、大した絵というものは、人間全体の価値を含んでいる。だから私も人の描いた絵を見て感動することがある。しかし、絵を見て感動するとことはごく限られた絵を見てのことだ。不遜であることは承知であるが。正直に言えば、国宝であろうが、世界の至宝であろうが、面白いと思う事はめったにない。横山大観展のポスターを見たが、何が面白いのか全く分からなかった。昔は大家なのだから、この絵を素晴らしい絵として学ばなければならないと思っていた。大観の物語を含めて、画家の人生みたいなものを想像したこともある。絵画というものがこうして子供時代に刷り込まれていた。上手な風呂屋の看板にしか見えなかった。
私の絵画と考えるものが、だいぶん変わってきたという事になる。この体感を素晴らしいとする刷り込みの絵画観が、自分の絵の自己評価に影響をしている。それはマチスのでも、中川一政でも、誰でもいいのだが、自分が自分の世界に至るためには、そいうものは結局のところ、邪魔なものに過ぎない。何故かそう思い詰めることが自分の絵を描くことのできる立ち位置である。だから、大した絵にならないでも構わないという覚悟をしなければならないという事になる。どこかで大した絵を描きたいという邪念があるから、ついつい、人と比較した意識があるからいけない。自分さえ良ければいいという、独善の覚悟だ。自分の絵の客観評価を捨てるという事になる。覚悟が足りない。だから自分の絵をそこそこのものと思えるのだろう。絵がなるという世界が遥かに遠い。