明治維新の見直し

   

日本人には明治維新というものを美化する人たちが沢山いる。実は薩長革命政権の宣伝教育に洗脳されてしまった人たちだと思わざる得ない。あるいは鞍馬天狗映画に騙されているのだろうか。その代表が佐藤栄作氏であり、安倍晋三氏である。明治政府は江戸幕府を覆した、革命政権である。当然やるべきことは自分たちの正当性の宣伝である。文明開化、脱亜入欧、軍国主義、天皇主義、明治帝国主義の確立。いかに徳川政権が堕落した、封建主義支配であったかをあらゆる分野で洗脳を試みた。ザンギリ頭を敲いて見れば文明開化の音がする。オッペケぺ・オッペケぺ・オッペケペッポー・ペッポ、ポ。と庶民としては笑い飛ばしやりすごす以外になかった。明治維新政府の権力争いは、戦争をやって敗れる道以外の何物でもない。ところが今の時代に維新の会を名乗るやからが存在するように、日本美化の原点に明治政府の革命政権がある。鎖国の頑迷な小国日本が、世界に伍す大日本帝国に生まれ変わったような馬鹿げた宣伝に載せられた空っぽ頭である。150年経過してもいまだ歴史を客観的に見ることができない人たちがいるという事だ。

明治政府の失敗の結論が、第二次世界大戦の敗北である。それは明治維新75年して戦争に敗れた歴史。そしてその後の75年は反省に基づく、経済大国樹立を目指し挫折した歴史になろうとしている。そしてまたぞろ、経済がだめなら、武力があるさ。と憲法改定というより、新たな自民党革命政権を樹立しようとしている。歴史に対する反省がない。今度の平成が終わりつぎの時代を、またぞろ、明治維新のような武力競争だけの理念なき時代に入ることを良しとしている。勇ましければ正しい訳ではない。かっこ悪い戦わない臆病な道こそ、本当の勇気ある選択だ。自民党は憲法改定を主張するのであれば、どのような日本国を目指すのかを明確にすべきだ。まさか今度のアベ自民党政権は、脱亜ニューアメリカ。ではなかろうな。一度は口にした美しい国日本とは、どんな国なのか言ってみろ。言ってみろ。アメリカになりたいと言ってみろ。アベの瑞穂の国なぞ下請け工場稲作にすぎない。国際競争力のある農業とは、日本文化としてどういう位置づけなのだろうか。何の文化もない国になれという事になるだろう。自民党革命憲法を言うなら、明確にアメリカの手下として、世界の岡っ引きになるのだと白状しろ。

時代は転換期にある。明らかに日本の立ち位置は変わっている。経済大国の可能性は完全に消えている。当然のことで、戦後70年の日本の優位性はすでにない。ごく当たり前に世界の一国である。日本が世界1になるようなこともない。普通に世界と助け合う一国にならねばならない。競争主義を捨てない限り、また明治の夢に先祖返りするだけである。その道は戦争の道である。間違いなく戦争が待っている。まずは、日本がどこに向かうかを示すのが政治の役割であろう。これがないと日々の暮らしに追われることになる。経済という共通価値感だけが、浮かび上がる。お金の価値だけが前面に出る。日本は世界の希望になれる国だ。江戸時代鎖国の中で、貧しいながらも見事に美しい瑞穂の国を生きていた。またそれに戻れというのではない。家族を大切に、友人を大切に、助け合い。励まし合う当たり前の暮らしを次の時代にこそ実現する。自己実現を目標にする社会だ。

その多くのヒントは江戸時代にある。江戸時代の日本人のように、平和憲法に従い生きることが出来れば、世界が次の戦争に突入しないで済む。まずは食糧の自給である。私自身食糧自給を達成したときに、初めて安心に暮らすことができるようになった。絵が売れないとしても、学校の教員をやめなければならないとしても、食べるものを自分の手で作り出せるという日々の暮らしがあった。売れるわけもない、商品価値のない絵を、みすぼらしく販売しなければならないという耐えがたい屈辱から離れることができる。売れそうな絵を描くというような才覚はなかった。自分というどうにもならないものが、自分の世界の絵を描きたがっていた。そんな自分でも食べるものを自分の手で作ることができるという場所に立脚できた。これで自由を確保してやって行けると安心立命した。日本にもそうあってもらいたいものだ。

 - Peace Cafe