アメリカの銃問題
アメリカのフロリダの高校で17名が撃ち殺された。アメリカではここ40日間に18件の学校での銃の事件が起きている。とラジオが言っていた。これが事実であれば何という恐ろしい国であろうか。日本でも毎日悲惨な事件が報道されるが、それでも日本が安全な国だと言われるわけである。そんな危険な学校に子供たちが行かなければならない国アメリカ。どれほど豊かな国であろうとそんな国は良い国とは言えない。暮らしたくない国だと思う。よその国のことは書かないことにしているのだが、アベ政権が目指している国が、アメリカらしいので見過ごすわけには行かない。安倍氏がどこを目指しているかは発言がないのでよくわからないのだが、若いころアメリカに暮らし、アメリカの豊かさを羨望のまなざしで見ていたのではなかろうか。アメリカになりたいというより、トランプになりたいのかもしれない。瑞穂の国日本を目指すかのような文章を残しているが、やっていることからすると美しい国とは正反対の弱肉強食のすざましい国が目標に見える。日本の方角がアメリカらしいので、アメリカの銃規制の問題は看過できない。
トランプ大統領は、高校での銃撃によって死亡した関係者と面談をした。その席での発言は、「教師がロッカーに銃を持っていれば多くの命が救われた。」というものだった。そして、学校に銃を備えて置く教師にはボーナスを出すというのだ。教師に銃の名人が居たならば被害は広がらなかったというのだ。まったく恐ろしい考えの大統領である。アメリカの学校教師は警官のように、銃の訓練を行うようになるのであろうか。警察官の様な武力を持った人間が、教育者としてふさわしいと考えているようだ。教師が銃を持って教室を守っている。そんな教育の場が安全で良いとはいえない。武力に対しては武力で対抗するしかないという考えなのだろう。そのやり方では必ず、銃犯罪は増加する。教師が暴力で生徒のなかの不満を抑え込もうとする。警官による人種差別的に市民を銃殺も起きている。今度は教師が生徒を撃ち殺す事件も起きるだろう。銃で皆殺しにしたいと思うが、銃を教師が持っているからやれない。こういうところに追いつめられる人間が溜まってゆく。力で暴力を抑えれば、その抑圧された暴力はどこかほかの警備の弱い場所で暴発するだろう。
こうした力で支配するような教育環境では事態は悪化する。競争社会で増加してゆく不満層が、教育の中で競争ではない価値観を見つけ出す機会をさらに失う事になる。競争に敗れたものに行き場のない環境を作ることは、人間を育てる教育ではない。教育は一人一人に応じて行われなければならない。優秀な人間を育てるために、その他大勢の人間が犠牲になるような教育は教育の名に値しない。戦う知識を身につける場が教育ではない。競争に敗れたとしても、人間の価値は少しも変わらない大切なものだという事を、伝えることが教育の理念である。それを具現化するものが公教育でなければならない。多様な価値があり、それぞれの人間が、それぞれにとってその人間のすばらしさを掘り下げるという姿が生きるという事だ。教育を企業の競争に、国の競争に役立つ人間を作る機関と考えているのではなかろうか。確かにそれが世界の潮流なのかもしれない。日本も遅れまいと、企業に役立つ教育改革に躍起である。
優秀な人間が一人いれば競争に勝てる。後は屑でかまわないという社会は、克服されなければならない社会だ。優秀な人間には優秀な人間の役割がある。その優秀さで社会全体に貢献してもらいたい。優秀であればあるほど、社会への貢献を考えるような人間が育つ教育になってほしい。ホリエモンやスーパーコンピューターのPEZY 社の齊藤元章社長頭のような人間が目標では困る。頭脳が優秀な人間が、一瞬にして世界を滅ぼすような兵器の開発に躍起になるような教育に向っている気がする。多様な価値が受け入れられる国こそ豊かな国であるはずだ。競争に敗れた劣る人間であってもすべての人が、必要とされている社会であってほしい。自分が頑張ることが、人の為にもなるという社会。そうした人間を育む教育。学校を考えるという事は、社会がどこに向かうかという事だ。社会の矛盾は子供に表れる。今アメリカで起きている悲劇を日本の教訓にしてほしい。