仮想通貨
仮想通貨が580億円分も一瞬にして盗み取られた。世間がざわついている。驚いたことに、この盗まれた580億円をこの会社が、手持ちの資金で補償すると発表したことだ。この凄いお金も仮想通貨で上げた利益なのだろう。お金がありすぎて、セキュリティー対策がおろそかになっていたのだろうか。日本は仮想通貨大国と書いてあった。世界の仮想通貨の3分の1が日本人関連だという事も書いてあったが、本当なのかどうかにわかには信じがたい。こうしたことの実態というのはそもそも誰が調べられるのだろうか。もしわかる人がいるとすれば、個人の機密を把握できるという事だから、その人もかなり怪しげである。それでも仮想通貨に日本人が熱中するという事は想像できる。日本人は極めて賭博好きなのだ。何しろパチンコ屋という賭博場が住宅街から文教地区にまで進出している国だ。賭博を悪事であるという倫理を失っている。これがアベノミクスの成果というものか。
賭博行為は大抵の宗教で良くない行いと禁止している。賭博におぼれれば人間らしい暮らしを崩壊させるからである。悪事をこの世からすべて排除せよとは言わない。悪事は悪所で行うから納まりが良いのだ。日本の社会では仮想通貨は株取引とほぼ同様の扱いである。ビットコインはテレビの広告まで行われている。本来禁止すべきもののはずだ。ビットコインでもすごい大金が消えてしまい、大騒ぎが起きたことがあった。それでもあぶく銭に惹きつけられる人は後を絶たない。楽して儲けることが人生の競争に勝つことだという、間違った考えが普通になっている。拝金主義の蔓延である。金品への執着を克服することが生きる修行ではないのかと思う。仏教における無所有、無一物という事であろう。物に囲まれる安心は物が無くなる恐怖と隣り合わせである。無所有の安心立命に至れば、そのままであることで何の過不足もない。むしろ物があることが、安心立命を妨げることになる。それでも断捨離には、生前整理の年齢までの諦めが、明らめ必要だ。
自給自足さえ確立できれば、無所有の安心に近づくことができるのではないかと考えてきた。禅の修行道場はそもそも自給自足であった。乞食修業はその為のものだ。物を貰う事で、与えるという修業をしてもらう。自分がものを貰うという事で、それだけの人間としてのふさわしい高見が必要という事になる。私という人間が供物としてのものを頂ける人間とは到底思えない。その負担にも耐えられない人間である。そこで自給自足に生きてみようと考えた。そのあたりから自分というものを考え直してみようと、30年前山北の山奥で開墾生活を始めた。健康で働ける人間であれば、100坪、一日1時間の労働で食べるものは確保できるという事に至った。これであとは絵を描いて生きても良いという安心ができた。といっても欲から離れられたわけではない。無くなっても何とかなるという程度である。
日本人は拝金主義にまみれて、お金に固執することの問題点にまで自覚を失い始めている。政府が経済活性化の為にわざわざ賭博場を開設しようと法律まで作る国に落ちぶれてしまった。確かに、競輪競馬、競艇パチンコという分かりやすい賭博よりも、仮想通貨は日本人ははまりやすいかもしれない。1年で100倍にもなるのなら、1万円ぐらいは捨てるつもりで、賭けてみてもいい。もしかしたら100万円になるのかもしれない。こうして何兆円ものお金が動くというのだ。こういう利益にも税金はかなるのだろうか。多分この仕組みなら利益の確定が出来ないだろう。となると消費税ぐらいが関の山になる。日本政府は仮想通貨を奨励しているきらいすらある。仮想通貨は使用が便利。国の枠を自由に超えられるという事で始まったらしい。これが投資対象になるという事がおかしいことなのだ。利益が出ない形の仮想通貨は出来ないのだろうか。