どう見えるのか、そして何を作り上げるか。
年賀状11
昨日の続きである。絵を描く為には世界というものがどう見えているのかという事が始まりになる。そして、その見えているものを使い何を作り上げるかという事が、制作という事になる。今まで世界を見るという事にかけてきた。見るという事には見える為の自分という存在が必要である。目に映るという事が見えるという事の始まりで、真実を見る、見抜くという眼がなければならない。見るという事には深く生きるという事がなければ、見えないものがあるという事なのだろう。10年前見ていた景色と今見ている景色は違っている。山北に越してきた30年前とは完全に違う。見えている世界の理解の仕方で、異なって見えるのである。だから絵がその本当の人間が見ている世界を、見ているままに指し示していると、絵から世界を気づかされるのだ。それが絵画というものの意味なのだろう。子供の頃目に映ったものと、今見えている景色とは異なる。もし異ならない同じものであれば、成長がないという事になる。しかも年齢に伴い見え方が深まるのであればいいのだが、たいていの場合は見え方は新鮮味を失い、観念的なものに陥り陳腐になる。
年賀状12
絵を描くという事を通して、人間に対して何を作り上げるのかが芸術作品の制作の問題である。芸術は人間を人間らしくするものでなければならない。作品が人間をよりよく成長させるものでなければならない。制作は人間が生きるという事の真実に向かい合うための仕事となる。人間の為の何かを作り出すことが芸術作品の制作である。制作は新たな世界を創造するということになる。これは極めて難しいことだから、制作は過去の良き作品を繰り返すことになりがちだ。自分の絵を描いているつもりでも、どこかで学んだ何かが画面に出てきているに過ぎないことになりがちである。それで描いては描いてはがっかりする。自分というものがなぜ必要かと言えば、自分でなければ、他者に対して意味あるものにならないからだ。自分であるという事はどうでもいいつまらないものであるという覚悟がいる。良さげな自分を模すのであれば、作品にはならない。ここに覚悟がいる。ダメでもいい。ダメだからこそいいという覚悟。
年賀状13
同じものであれば、意味を理解することによって見え方が違う。月を見る。花を見る。山を見る。海を見る。その意味を知り。そこにある文化や歴史を知るという事により、同じものが違って見えてくる。その先にある世界の真実を見るという事が絵を描く目で見るという事になる。その見えるためには、実は自分が放光しなければならないという事のようだ。見るという意識の光をぶつけることで、そこから自分に反射してくるものが絵の眼で見るときに見えるものである。絵を制作するとはその自分という人間の眼が見抜いた世界を、どのように絵画にするかである。それはただ写し取ることも難しいものだ。自分の絵画手法というものを持ってその見えている世界の創造になる。画面という世界にあらたな空間を作り出すという事だろう。見えているものを出発点にするが、それを組み立て直して世界を画面として出現させなければならない。
年賀状14
今年も石垣の田んぼを描いてみようと思っている。田んぼを写生しながら、制作というものを模索したい。見えている物とは、自分が発した反射なのだという見え方。こうして年賀状の絵を並べながら絵のことを考えてみたのは、自分の絵を目の当りにしながら絵を考えるしかないということをおもってのことだ。これしかできていない。こんなものだという現実。それは同時に、絵が自分というものを超えているという事でもある。上にある14番の絵もどうやって、どうして、このように描いたのかが、全く分からない。どういう手順だったかもよく分からない。ただこうなったというだけである。見てみれば、これが絵なのかどうかも怪しいものである。それでもここから始めるしかない。石垣に行くのは今から楽しみである。そして、写生は制作が絵空事にならないように、するためという事を確認したいと考えている。
年賀状15