絵の進め方メモ
年賀状6
昨日は絵のことを書かなかったが、今年は絵が進むのではないかという期待がある。自分の絵に近づきそうな希望がある。昨年後半に入り、アトリエでの制作と、出かけての写生との違いを意識して絵を考えていた。そんな当たり前のことをなぜ、今までしていなかったのか。絵というもののことをよくわかっていなかったからである。絵を描くという事が日常の習慣になっていたという事なのだろう。分からないままただ絵を描く、絵を描くでいた。絵を描くという事をどう考えていいのか自体が捉えることができなかった。今になってなのだが、絵の何たるかが少しわかってきた気がする。この分かったは、頭で絵を理解したというようなことでもない。どんな絵が自分の生きるに必要なのかが、少し体得したというような感じだ。何故、世間に様々な絵があるのかという事が分かってきた。それは、ダビンチの絵は私には絵ではないのだという理解でもあった。素晴らしくとも、私の命が必要としている絵は別のものであるという当たり前のことだった。
年賀状7
絵を描くと言っても、現場での写生とアトリエでの制作とでは全く違う事になる。現場では何といっても向う方角が目の前にある風景である。画面を進めていてわからなくなれば、眼前の風景を見て確認することができる。画面を見て描いているのだが、すぐ分からなくなる。どうしようと迷う。迷えば反射的に目の前の風景を見て、描いているあたりの様子を見て、確認しようとする。そして何か役立ちそうな情報を得て、それを起点にして画面を進めてみる。見えている情報というものが、大きく画面に影響してゆく。見えているという事を、絵画的に見えているに置き換えようとする。写真のように見えているという事に従えば、絵葉書のような絵になるに違いないと考えているからだ。絵葉書のような絵は絵ではないという頭の理解がここにある。頭の中にある、学習してきた良い絵とは何かという情報に基づいて、眼前の風景を置き換えてみようとしている。
年賀状8
この自分なりの見え方というものは、長年の絵を描くという訓練を経て目を通して頭の中がそうなっている。だから、自分の絵のように眼前の風景が見えている。昼が得て考えれば、それはあくまで頭の中に出来上がった、絵画世界のことだ。それを現実の風景に当てはめようとしている可能性が高い。絵はそういうものでもないとは考えている。すでに頭の中に形成された絵画という概念を、打ち破らない限り、自分の絵画世界は見えてこないという事は理解している。つまり創造するという事は自己否定する事がなければできるはずがない。新しいものを作り出すという事はそういう事なのだろう。過去培われたものに準じて磨き上げる制作は職人仕事であり、芸術的創造とは違う。と私は考えている。未だかつてないものを作り出してみたい。自分という中にある未知の世界を開いてみたい。
年賀状9
アトリエでの制作は全く観念的なものになる。描いてきた風景を思い出すようなことは全くない。画面の調和を求めて、調整を続けている。調整は自分の必要とする絵画観に基づくものである。自分の絵らしきものを探り求めての制作になる。その時、実際の現場はかすかにも思い出さない。何故だろうと思うが、現場に行かない限り、描いている場所のことはどこにもない。写生をしているときは自分というものが発しているような感じがする。自分の中から絵を見る光線が風景に充てられている。アトリエでの制作では、絵が自分というものを探り出せと突きつけてくる。これは自分ではないと、迫ってくる。では自分とは何かという創造になる。アトリエ制作は創造で、写生は自分というものの放光である。放光したものが、反射して自分の眼に飛び込む。そしてそれを写し取る。それが現場写生のようだ。
年賀状10