ブログの恥ずかしさ
ブログを書いていると、いつも自己陶酔ではないかという不愉快感に陥る。そんな自己嫌悪を感じるくらいなら止めればいいようなものだが。心の底に向けての意見が貰えることもある。不安を感じながら続けている。いやらしい人間に見えようとも続ける方を選択している。言い訳はある訳だが恥ずかしさに変わりはない。結局のところ自分の役に立っているからだ。一つには備忘録である。備忘録はブログを始めるより、15年も前から続けていた。自分の自給自足の生活の記録を書いておかないと、翌年の参考にならなかったのだ。足長キノコを北のどの沢で、何月何日に見つけた。とか、タケノコが何月何日に猪に食べられた。と書いておくことが翌年大いに役立つ。それは、ハエが初めて出た日を毎年記録していたという、桧枝岐のおじいさんの話を思い出して始めたことだった。自給生活に記録は不可欠なのだ。畑ではいつ何の種を蒔くのが良いか。などという事は何年も経験を積み重ねてわかることだ。
ブログをやろうとした動機は、ピースカフェーというミニコミ通信のウエッブ版という事である。これは当時やっていたピースカフェの仲間との約束である。紙媒体の継続が難しくなった時に、何とかみんなでブログを連帯して、平和を伝えてゆくという事になった。その後、平和は危うくなるばかりで、辞める訳にはいよいよ行かない心境になった。どれほどこのブログが役に立つものかわからないが、平和への不安がより強くなり、止められなくなった。さらに直接的な動機も生じた。鳥インフルエンザの流行である。養鶏業を行う者として、深刻な状況に陥った。自分の鳥インフルエンザに関して学習したこととからすると、政府の対応があまりにずさんで、見当違いに見えた。その結果日本から鶏を飼うという文化そのものが消えかかっている。日本の伝統文化である日本鶏の飼育はほぼ終わりに向かう事になってしまった。動物園から日本鶏が消え、小学校からも鶏が消えた。政府の鳥インフルエンザウイルスに対する認識がおかしい。これを主張する場がどうしても必要だった。
ブログを書くことで分かることもよくある。書き始めてだんだん事の真相が見えてくるという事を何度も経験した。書き始めていた時の理解と結論が逆になるという事すらある。ブログは公開することだから、確認をしてみる。思い込みで違う判断をしていたという事もある。自分の頭の中を整理できる。整理している内に発見することがある。だから、作物のことでも書いているうちに手順が確認できてくる。特にグループでの活動では手順やスケジュールをよほど整理しておかないと、合理的な栽培は出来ない。最初の頃は良いコメントを頂いて、それで考えを深めたいという気持ちもあった。ところがこれは結局ダメだった。以前、フェースブックというのものを始めたが、これは上手く対応できなかった。ホームページもやっている。ブログで書いた記事を整理する場所にしているだけだ。
ブログという武器で意見を公表することで、押しつぶされない力を得るという事がある。これはブログを書いてきて、実際に経験したことだ。個人が違うと考えていても、権力というものは押し黙らせてしまうという力で迫ってくる。放し飼いの養鶏が許されなくなったのだ。不安が広がり、周辺の人から注意を受けることになった。その根拠はあまりに薄弱だ。野生の鳥がいて、それが感染を広げている。野生の鳥にはワクチンも消毒もできない。これが自然の環境である。養鶏場の鶏が放し飼いであることがどれほどのリスクを増すのだろうか。論理が成立していない。そもそも、インフルエンザが流行したのは大規模な工場養鶏だ。こういうことを主張して押しつぶされないためにはブログを続ける必要があった。小さなささやかなブログでも、意見を公表しているので押しつぶされず、放し飼いを続けることができた。この事件では、おかしな自殺や不可思議なワクチン使用。人ひと感染のデマとか。いろいろ事件が起きたのだ。
どう言い訳をしても、ブログを書くという事は恥ずかしい行為だ。恥知らずの方ではあるが、それでも耐えがたい場面もない訳でもない。何年かぶりに会った友人に、ブログ読んで様子は分かっていたなどと話してもらう事がある。手紙の役目もしているのだと思う。ブログをまとめたホームページも作っている。こちらは部門別に整理して、稲をどう作ればいいか等整理している。自給生活を目指す人がいれば、きっと参考になると思うからだ。これは私が死んだ後も役立つようにと思うからだ。私が開墾を始めるときにはほとんど参考になるものがなく、全くの手探りだった。だから可能か、不可能化すらわからないまま始めた。100坪1時間の自給生活の実際がどういうものかを、体験のままに示す価値はあると考えている。残す価値のあると思える記事は、ホームページの方に、整理してある。とあれこれ言い訳のようなことを書いてみたのも、やはりどこか恥ずかしい気分があるからだ。それでもともかく続けられる間は続けてみたいと思っている。