山之口貘という詩人の不思議

   

山之口貘という詩人がいる。なかなか難解な詩で一筋縄では行かない詩だ。

  生活の柄

        山之口貘

  歩き疲れては、

  夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである

  草に埋もれて寝たのである

  とろ構わず寝たのである

  寝たのであるが

  ねむれたのでもあったのか!

  このごろはねむれない

  陸を敷いてもねむれない

  夜空の下ではねむれない

  揺り起されてはねむれない

  この生活の柄が夏向きなのか!

  寝たかとおもふと冷気にからかはれて

  秋は、浮浪人のままではねむれない

鮪に鰯
鮪の刺身を食いたくなったと
人間みたいなことを女房が言った
言われてみるとついぼくも人間めいて
鮪の刺身を夢みかけるのだが
死んでもよければ勝手に食えと
ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ
女房はぷいと横にむいてしまったのだが
亭主も女房も互に鮪なのであって
地球の上はみんな鮪なのだ
鮪は原爆を憎み
水爆にはまた脅やかされて
腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
ある日ぼくは食膳をのぞいて
ビキニの灰をかぶっていると言った
女房は箸を逆さに持ちかえると
焦げた鰯のその頭をこづいて
火鉢の灰だとつぶやいたのだ

不思議というしかない詩である。詩というものが、一体何なのかと言っているような暮らしの実写の詩だ。絵と同じだ。絵だって何だとは言えない。何でもないと言えば、何でもないものだ。山之口貘さんの詩は高田渡さんの歌で知った。ずいぶん変えているから、高田さんの緩い変え方が分かりやすくしてくれていたのだ。「である。をです。」「浮浪人と不良者」ではだいぶ違う。山之口貘をフォークシンガーの高田さんが分かりやすく歌ってくれていたので、何とか難解な山之口貘さんが近くに感じられたのだ。山之口獏さんのことは沖縄を調べる中で、際立ってきた。沖縄の那覇出身の人だ。若い頃一家が没落して、東京に来た。日本美術学校に入学する。没落したとすれば、どうやって入学したのだろうか、少し不思議だ。一ヵ月で退学。その後は、浮浪人でいた訳だ。その暮らしの中で、生活に根差した詩を書いた。だから浮浪人の詩である。今風に言い換えればフリーターの詩である。16年畳の上に寝ていないともあるから、路上生活時代の16年は長い。きっと身体の強い人だったのだろう。友達の世話があってあちこち勤めもしたようだ。

一遍の詩を書くには相当の推敲が必要だったという。一つの詩に400枚の原稿用紙があったというから、簡単にできた詩ではない。生涯200篇弱の詩が残された。高村光太郎賞を受賞というから、認められた詩人である。反戦や反核をどのように表現出来るのか。マグロを食いたいというような、実生活からにじみ出てくるしとしての表現。こういうやり方が芸術的方法なのかもしれない。おかしみという事が大切にされている。戦争協力の高揚詩を書いた高村光太郎が、戦争中にも浮浪者で暮らした反戦詩詩人に賞を与えている不可思議。昭和初年から敗戦後の日本の東京で、浮浪者として正しく生き、生活の柄をつづった詩人。日本の芸術家を名乗る大多数の人間たちが、戦争協力に走る中、人間として生きようともがいていた。そういうすごい人の詩なのだ。今も何ら変わらない、芸術の能天気時代。商品絵画の時代。商品は消費されて、消え去るのみ。せめて、今日も高田渡さんを気取って、泡盛を飲んで、生活の柄を三線で鳴らそうか。

生きるということは何とも悲しいものである。 この悲しさが詩になるのだろう。悲しいのだけれど愉快でもある。悲しいから愉快ということかもしれない。悲しいという根源には、人間が生まれて死んでゆくという厳しいものがある。八木重吉は幸せな家庭は軒先から火が上がっていると歌っている。だらだらと生き続けるわけではないのだ。この軽い表現が、ユーモアーを含んだ詩だからこそ伝えられる大切なもの平和という物の実態。暮らす、生きるそういう大切なことが、国柄よりも、生活の柄ということなのだろう。それは平和の心が内側で光り輝いているからの話のことだ。競争して人より優れたものになるという事ではない。自分であること。平和の本質を知らないものに、こうした詩が書けるわけがない。絵はその心の中の安寧を表していたい。できないだろうが、そのわずかなかけらのようなものが絵の中に漂ってくれることを祈って描いている。

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