世田谷学園の部活顧問

   

教員の部活の顧問が負担という事で話題になっている。部活動の顧問をやっていた経験があるので、思い出して書いてみる。学校によってずいぶん違うのだと思うが、私は私立世田谷学園の美術講師の体験である。教員をやっていれば、美術に特に熱心な生徒の対して、嬉しい気持ちになり協力したいと思うのは普通だろう。世田谷学園にも、1500人近い生徒がいたのだから、その3%は美術が好きだったはずだ。45人である。1%の者は将来美術分野で活動したいとまで考えているはずだ。15人である。学年に2,3人くらいは美術好きがいる。実際に卒業生の各年代1人や2人は美術関連の道に進んでいるようだ。美術に熱心な人間が、美術部に来る。美術部は30人くらいいた。私もその学校の生徒だった時は美術部に所属していた。中学生から高校生までの成長期の生徒である。美術部の活動を生徒と一緒にやることはけっこう面白かった。若い人たちと一緒に絵を描くのだから、指導するという事より以上に興味ぶかく面白かった。

学校には週3日か4日通ったのだが、そのほとんどの日の放課後は、美術部の部活動があった。生徒が何かやりたいと言って一人でも来れば、帰らないで一緒に何かしていた。だいたいが午後3時からはじまり5時までである。土曜は昼からやった。くる生徒はしょっちゅう来る。時には6時になっても帰らない生徒もいた。多くはアニメを描いて居たのだと思う。家でやっていれば怒られたのかもしれない。その中にはアニメの世界で活躍している人も居る。以前偶然渋谷の雑踏で会った卒業生がアニメ映画を作っていると話していた。その部活指導は特に言われた訳ではなく、自分の意思でやっていた。講師という立場だから、部活動の指導をしていても給与はもら得ない。私はその学校の美術部の先輩という立場でもある。その美術部で絵を描いて居て、そのまま絵を描くようになった。中学生の頃の美術の教師だった稲田先生も加藤先生も美術部の絵の指導もしてくれていた。

私がいたころの世田谷学園はお寺のお堂もあるような、なんとなく寺子屋の延長的な空気があった。給与の為に学校に勤めていた訳ではないので、どこか修行のような気持でかなり長いこと勤めた。私が今僧侶であるのも、世田谷学園での講師の経験があるからだ。そんな私でも部活顧問はかなり負担になってはいた。生徒と一緒に美術展を見に行くようなこともあったが、それは自分が中学生のころ、先生からしてもらっていたことだったからだ。そういう自分にとってありがたかったことを、生徒にして一緒にやりたいと思っていた。その頃の校長は中学2年の時の担任だった、山本先生である。中川一政氏の甥にあたる人だ。この人も実に熱心な人だった。私が生徒の頃の校長先生がが杉先生でこれほどの人格者はその後もお会いしたことは全くない。たぶんそのことに同感の人は多いことだろう。そいう環境であったので、自分が部活動を指導することは、自然の成り行きだった。生徒の部活動はそういう教師と生徒の関係の中で維持されていた。

教科指導の中で不足している部分を部活動が補っている。生身の人間としてのかかわりが深まり、生まれるものの中にあるもの。だから今も記憶にある生徒は、美術部の生徒ばかりだ。ある意味学校の中の逃げ場の位置であった気がする。それは美術というものも、私という人間の性格も、受験競争の中にいなかったからだと思う。学校の教師は多様である方が良いのだろう。生徒もさまざまであるから、一通りであれば波長がづれる生徒もいるだろう。意識して学校での自分の立ち位置を外れたものにしていた。教師が忙しくてはダメだろう。教師がやらないでも良い仕事を行う事務的職員を充実させる必要がある。病院には看護婦さんと医師と事務職員が必要だ。学校が教員だけで出来ているのでは上手く行くわけがない。カウンセラー、事務担当、用務員等様々な目が学校には必要である。世田谷学園のなかにある家には用務員の方の家族が暮らしていた。このお母さんが優しい人で俳句を作られていた。取れたボタンを付けてくれたりした。忘れられない重要な存在であった。

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