小田原市文化財保護課

   

24日の午後、小田原市の文化財保護課に出かけた。舟原にある溜池を文化財として、何らかの保全対象として申請できないかと考えてのことだ。舟原にある溜池は神奈川県では最後に残った一の溜池という事だ。西湘地区では知る限り一つもない。江戸時代の初期に作られたものと言われている。久野川の上流部では、江戸時代初期に田んぼの造成が進んだようだ。それ以前にも田んぼはあったようだが、棚田の造成や、水路の整備など、江戸時代の初期に整備が進んだと思われる。農業遺構として、棚田の石積みや、山を掘り抜いた水路。そして溜池など全体が一気に整備されたと言われている。それはこの地域に住む古い農家の方々が、少なくとも江戸時代初期からここに住んでいた記録があると言われていることに、呼応しているように思われる。溜池も以前はもっとあったらしいし、水車など舟原地区にも少なくとも5基あったと言われている。こうした江戸時代の暮らしをたどることのできる材料が、刻々失われている。

小田原城址等の権力者の遺構は熱心な文化財保護がなされるが、農民の暮らしの方にも目を向ける必要がある。むしろ庶民の90%が農民であり、農民の暮らしをうかがい知ることのできる遺構を残すことの方が、文化財保護には重要な観点だと考えている。ところが歴史と言えば、権力の歴史だというのが、学校教育で一般化している。大化の改新とか、関ケ原の戦いとか、そういう歴史を歴史として考えるのが権力の発想である。しかし、重要なことは普通の人の普通の暮らしの細部を知ることが本当の歴史である。それが柳田国男の民俗学の常民の暮らしの歴史である。そういう観点から農業遺構というものに目を向ける必要がある。瑞穂の国の成り立ちから稲作が中心である。棚田、用水、水車と、このあたりが明確になれば、人口から、当時の経済力まで想像できることになる。何を作り何をどれだけ食べていたかがわかるという事は、これからの人間の暮らしを考えるうえで重要な材料になる。

文化財保護課では、「溜池は文化財として審議するような対象でもない。審議の申請するにも値しない。」という事であった。窓口の女性は課長には聞きに行ってくれたが、課長は対応もしてくれなかった。農業遺構など、同じ時代のお墓よりも無意味だというのだ。舟原には中世のお墓が小田原の文化財として保全されている。あれが残す価値があり、何故溜池が残す価値がないのか。説明をしてほしいところだった。「小田原には文化財として残すかどうか審議すべき重要なものが山ほどあり、ため池はその順番にも入らない。」せめて、文化財としての価値があるかどうかは別にして、審議の申請だけでもさせて欲しいとお願いした。それは保全を続けてきた者のせめてもの希望だ。「そんな申請の制度もない。」文化財としての審議の対象はどうやって決めているのか。と聞いたが、委員の先生が決めていることだというだけで、ともかく申請など出来ないという事で終わった。役所に行くとがっかりすることばかりだ。

この溜池の土地は久野村の登記になっているそうだ。この水を利用しなくなってから、溜池は荒れ果てていた。水利権は欠ノ上の方7名にあるとか聞いたが、すでに水利権はいらない。管理もできないというのが結論である。そこで、何人かで10年ほどかけて整備を続けてきたのだが、文化財としての価値がないというのが、小田原市の判断であれば、里地里山協議会での、今後管理の継続は難しい。価値のないものの管理をボランティアでやり続けるという事は、不可能である。では一体、あの溜池はどうなるのだろう。荒れ地になり、崩壊に任せるという事になるのだろうか。それはそれで小田原市の所有地に対する小田原市の判断である。しかし、その判断を検討もせず、文化財課の課長の判断で決めて良いものだろうか。窓口には出て来なかったので、文化財課の窓口で門前ばらしたという事になるのだろう。我々の10年間の溜池を保全して来た努力に対する、小田原市行政の対応はこんなものである。何が市民協働であろうか。もう自分の土地の管理もできない行政とかかわるの沢山だ。日ごろの管理のお礼ぐらい口にしていいはずだろう。どうでもいい気分である。

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