立憲主義と憲法9条

   

日本が立憲主義の国であるという言ことは、誰しも認めるところであろう。憲法に従い国の運営を行うという政治の在り方のことだ。ところが、憲法9条についていえば、自衛隊自体が憲法違反であるということが、自衛隊ができるときに憲法学者の大半の人たちが主張したところである。だから、憲法を改定すべきだという圧力まで、アメリカから起こされた。自衛隊ができたこと自体がアメリカの方針によるものであったからだ。その背景には日米安保条約がある。しかし、自衛隊が出来上がってみると、その存在を国民の大半が、受け入れるようになった。私は自衛隊すら違憲だという意見であるが。そうした日本の世論の流れもあり、内閣法制局が憲法9条の解釈を行うという形で、9条を拡大解釈して、自衛隊を9条違反ではないという結論を出すようになった。そして現状では、自衛のための武力は9条の違反ではないということが定着した。このやり方は日本的な問題解決法であるが、憲法解釈がこんなあいまいなやり方で、良かったわけがない。憲法を改定すべきだったのだ。

ところが、この自衛のためという一文を加える解釈の拡大が、今度は集団自衛権という形で、さらに拡大しようということが今行われようとしている。そのことには憲法学者の9割の方が、安全保障法制は違憲ではないかと主張するところになった。自衛隊が出来た時と同じ流れである。ところが、憲法学者は学問をする人だから、さすがに今度の拡大解釈は無理だ。どうしても集団自衛権を行使するなら、憲法自体を変えるべきだということを言われる人が多い。しかし、政府側には、公明党という不思議な平和政党が従っていて、3分の2の与党という状態が形成されている。政治は安保法制の成立を着々と歩んでいる。憲法違反の疑いが極めて強い法案が成立されようとしている。政府は作ってしまえば国民の反対は次第に収まってゆくと考えているようだ。お上に従うという日本人の歴史的な習性を利用している。確かに何もなければそういうことになるだろう。しかし、今度の法律はすぐにでも派兵ということになる現実がある。

そもそも憲法学者という存在は、日本の特殊な理想主義憲法に惹きつけられ、その学問を選択した人が多いいのではなかろうか。そして、憲法9条によって日本らしい「平和文化」を日本社会に定着させたのだろう。敗戦という悲劇の結果で、価値観を喪失した日本国民に与えられた最高の宝物が、日本国憲法であった。そしてこの憲法の存在によって、侵略戦争の加害責任を償う形の国際公約になった。だから憲法を変えることは、国際公約を破ることになる。70年たったから、新しい世代に戦争の責任を負わせることはないというのが、総理談話であった。その時に書いたことだが、国というものは、永遠に過去の責任を取らねばならないものである。同時に過去の評価も引き継ぐものである。日本国の過去を忘れない態度こそ、国というものの現状から未来への信頼につながるのだと思う。

安倍氏の方角は根本からの日本の方向の変更である。アメリカの後退と中国の台頭。そしてイスラム圏の深刻な戦闘状態。難民が何十万人もヨーロッパに脱出している。こうした世界情勢の中で、日本がこの武力対立に割って入ろうというのだ。危険極まりない。そんなことはあり得ないと国会答弁では主張しているが、そうならないなら、何のための法律改正なのであろうか。不要不急の法律改正のはずがない。アメリカの世界戦略に同調するということにならざる得ない。戦争に加わる可能性が相当に高まる。それが日本の義務であり、国際貢献だと政府は正直に示して、正面から議論すべき問題である。集団的安全保障の枠組みが不明確なまま、解釈変更で行くというのがこの法律の性格だ。戦場で手足を縛る制約があったのでは、戦闘員の安全が守れないというのが現実だろう。日本としては、精一杯の平和的努力を行うことで、軍事的参加をしないで許してもらうことしかない。

 - Peace Cafe