オリンピック・エンブレム問題
東京オリンピックのエンブレムが昨日になって、佐野さんというデザイナーが取り下げを申し出た。このデザインを見たとき、前回のオリンピックの亀倉氏のポスターデザインを思い出した。亀倉氏のデザインは中学生の時の私には、衝撃的なものでその後デザインというものの魅力を知る出発点になった。ポスターを集める趣味というものが生まれて、大学生のころまでずいぶん集めた。その集めたポスターを土台に大学の時に、ポスター販売のイベントをして、美術部の活動資金を作った。ポスターを作る仕事も請け負うようになって、学内のサークルポスターはずいぶん手掛けた。そのころ始まった、シルクスクリーンを手探りで研究して作っていた。県体育館の裏にあった、軍隊の馬小屋の跡を改造したなかなかの作業場だった。いつもそこに泊まり込んでいたので、ついにはそこに移り住んだ。大学の中に暮らしていて大学に通ったのだから、楽と言えば楽だった。
エンブレム問題であった。この程度の類似性を盗作と疑われるのであれば、文字を取り込んだデザインなど成立しない。この問題は現代社会の病的な部分が、作り出した事件だ。報道などでも殺人事件の、細部を繰り返しネタで掘り下げようとする。毎朝毎晩、子供と女優の卵の殺人事件の推理ドラマ化である。一度聞けばもう充分である。エンブレムでは、デザイナーが初期対応を完全に間違った。まず自分が出てきて、洗いざらい正直に語ればよかったのだ。最初は逃げ腰であった。その後居直った。まあ素人にありがちな対応である。簡単に言えばマスコミを敵に回した。お得意のくだらない根掘り葉掘りの推理が始まった。それが視聴率を稼ぐ餌食なのだ。ネットも沸き上がった。たちまち過去の仕事の盗作疑惑が持ち上がった。この時の対応はさらに悪かった。こっちの盗作は勝手に社員がやったので、自分は悪くない。こんな言い訳が通用するはずもない。火に油を注いだ。もう駄目だと思っていたら、今度は提出したエンブレムの使用例の写真が他人の写真の無断借用だった。
要するにデザイナー会社と言っても、この対応はド素人である。問題対応の基本ができていない。まず自分が出て説明する。その時に本音で誠心誠意説明する。まず創作者の立場を世間に知ってもらうことだ。デザイナーなのだから、世界中のデザインの類似性を調査する点で、落ち度があることはやむ得ない。このデザインの類似性に関しては、責任は選考委員会にある。このデザインを選び、類似性を調査して、変更を加え良しとしたはずだ。類似性については、当然そのデザイナーの会社の仕事は調査しなければだめだ。デザイナーの個人会社の最近の仕事が完全な盗作と分かっていれば、誰が選ぶだろうか。簡単な見落としである。問題は、オリンピックを進めている事務局が能力がないから起きたのである。テレビ局の追及は方向が違う。国立競技場の白紙撤回の時のもそうだったが、だれも責任をとらないで終わる。
こんな人たちでオリンピックは大丈夫なのだろうか。すでにダメなのではないか。オリンピックは返上した方が良いのではないか。これが前回と、今回の大きく異なる日本人の劣化の表れなのだろう。50年たって、これだけ日本人が劣化したのだ。責任というものがない社会。言い逃れの社会。競技場が予算の倍額になって、巨額なお金が失われても誰が悪いのかがわからない。たぶんすべての公共事業がこうなのだろう。公共事業は倍かかると言われる。エンブレムが盗作疑惑に陥っても、誰かが悪いのであって、全員が他人事である。昨日発表した事務局の責任者は、責任というものを全く感じていない。居直っているのではなく、責任に気づいていない。日本はかつて恥の文化と言われた。それがおもてなしの後ろにあったのだ。おもてなしだけもてはやし、肝心の恥の方は忘れられた。恥の前に命をかける精神があって、責任というものは存在する。