沖縄の新聞

   

地方紙には全国紙とは異なる地方紙としての役割がある。沖縄のように、長くアメリカに占領されていれば、そうしたことに対抗する新聞ができて当然であろう。それが占領下の沖縄の困難な状況を反映している。そのような新聞が成立しているということこそ、残された民主主義である。それを左翼新聞であるから、つぶしたほうがいいという発言が、自民党の青年局の議員の芸術文化懇談会というところの講演会で出た。沖縄には独自の芸術文化が息づいている。それを育ててきたもの、沖縄の新聞である。自民党の芸術文化の認識は、異質は認めがたいものらしい。確かに芸術文化にはそうした傾向がある。何が良いかを決めてあれば分かりやすい。文化の基準化である。しかし、日本が民主主義国家である以上を政府を批判する役割としての、新聞は不可欠である。報道の基本理念は批判精神である。政府の翼賛報道など百害あって一利なしである。百田氏も産経、読売は残すべき新聞としていることでもその意味がわかる。

沖縄の文化は多様で深いものがあるが、音楽と布の文化に特に魅かれる。それを後押ししてきたのも沖縄の新聞である。沖縄文化が息づいているのは、報道の文化に対する姿勢もある。先日の三線座談会にも、沖縄の新聞は取材に来ていた。報道機関の役割をどう考えるかである。地方紙であれば、その地方の情報を生活者に届ける。それが地域の暮らしを豊かなものにする。そして、問題点があれば、先んじて調査して報道してゆく。そうした報道が存在するかどうかが、民主主義社会が成立するための不可欠な要素である。だからこそ、報道は批判精神を持って、権力に対抗する姿勢がなければならないのだろう。それは良い文化を育てるという意味でも同様である。資本主義の商品文化に流されない、その地域の歴史に根差した文化を守り育てることも大切な役割になる。

沖縄の報道の目的の根底にあるものは沖縄の文化という、そのものが世界遺産と言えるような、沖縄の歌謡文化を残すことでもある。おもろそうしに見られるような、歌謡の文化である。文字で残す文化が成立する以前の世界では、唄でその記憶を伝えてゆく。そうした専門の記憶の素晴らしい歌い手が、歴史担当として必要であった。日本本土では古事記や万葉の世界である。特に琉球王朝では王朝から、一般の庶民にいたるまで、その生活の記録、あるいは祖先からの伝承まで、民族の歴史そのものまで、歌謡として残されていたのだ。それが息づいたまま、近代を迎えた。その意味ではアイヌのユウカラも同じことである。三線の神様「あかいんこ」もおもろぞうしに書かれている。膨大な唄を記憶して、次の時代に伝えてゆくためには、記憶する者としての一族がいたのではないだろうか。おもろの編纂が1500年代だとすると、三線が伝わった時代と重なる。

自民党では、沖縄の新聞が政府の方針を批判する側面だけで、つぶせばいいというような乱暴な意見が飛び交っている。しかも、広告を載せることを経団連から圧力をかけようというのだ。もちろん経団連も、そんなことはあり得ないと口では言うだろうが、どういう行動をとるかは注視しなければならない。報道は資本主義経済に負けてはならない。NHKのように、経済から独立している機関については、その人事で操作しようとしている。この暴言大王の百田氏が安倍内閣から送り込まれた委員であったのだ。NHKの籾井会長も、でたらめな発言を繰り返したが、いまだ辞めないで居座っている。こうして報道に圧力をかけようというのが、政府のやり方なのだ。沖縄の新聞は明らかに他所の地方の新聞より、骨がある。だから、あえて自民党は問題にしたのだ。百田氏はつい軽口で出たようなことを言っているが、確信犯である。こうして安倍氏の意図を伝えているのだ。

 

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