殺害写真の公開
小学校の教師が5年生の子供達に、イスラム国による湯川さんの殺害の写真を見せて授業を行ったと言う。その原因は、私の想像ではラジオで公開すべきだと主張していた人にあると思っている。名前は忘れたが、新聞社やテレビ局が殺害写真にボカシをかけて、公開しない事をおかしいと主張していた。イスラム国が殺害写真を公開して脅しているのだから、日本国民はその現実に向かい合う為には、殺害写真を見るべきだという主張だった。ラジオだから写真を見せられないで残念だと力説していた。とんでもない武力主義の話だ。そんな写真を見なければ、想像増力が働かないようになっているのだとしたら、人間の感性が弱いだけである。自分が感性が弱いからと言って、すべての人に、殺害写真を見せると言う行為に、どれだけの正当性があると言うのだろう。彼はそうすれば、日本に軍事力が必要な事を国民が理解すると言う事を考えている。
同時に戦場ジャーナリストが、戦場の実情の報道写真を危険を冒しても撮りに行くべきだという主張もおかしいと思う。イスラム国がやっている悪事や、アメリカの空爆の結果起きていること位、想像力を働かせれば分かる事である。写真という証拠がなければ、人間の蛮行が伝わらないとする考え方は違うと思う。戦争で起きている事がどんな事か位い想像が出来る感性を持つ事が人間には必要である。ちゃんとした人間なら見なくても分かるはずである。こうした悲惨な現実を直視しないから、戦争の悲惨を理解できないと思うのは、少し違うと思う。アルジェの戦いという映画が、フランス国内で公開され、アルジェリアの独立につながる。私もこの映画を見て、戦争と言う物を知った。しかし、これは劇映画である。あるいは、大岡昇平氏の俘虜記を読んだ事で戦場と言うものを感じた。実際の映像で事実を伝えると言う事もあるが、あくまでもそれも現実の一部である。映像を現実と考える事も間違っている。
中学生の時に、原爆資料館に学校で行った。私は中に入りたくなかったので、拒否した。拒否する事は先生は認めてくれた。見ないでも原爆の悲惨さは分かっていたし、悲惨な現場証拠を見たいとは思わなかった。戦争の記憶が風化すると言われる。戦争体験を伝承する活動と言うものも行われている。反戦の活動として重要なことだと思うが、そうした証拠写真を見なくとも、戦争で起こる人間の残虐行為は充分に想像できる。そういう想像力を育てる事の方が重要である。生々しい写真証拠を見なければ、起きた事が分からないという人間では困る。私は対馬丸記念館も前まで言って入れなかった。しかし、そこで起きたかなしい出来ごとの事は、その建物の前で、反芻した。戦争画というものが、戦争を表すものでない事は当然である。友人の子供が戦争写真を見て、しばらくうなされていたという話を聞いた。殺害の現場写真を見せて、平和教育を行うと言う事は、とんでもないことだ。一種の精神の圧迫である。写真など見せる前に、人間の感じる力を育てるべきだ。自分の感じる力が弱いからと言って、教師がその節度を持っていないという事は、教師不適任である。
本当の人間の存在的な悲惨を感じるものは文学であったり、絵画である。私にはフランシスコ・ベーコンの絵だ。「でも私が描くものは今の世界の恐怖にはかなわないよ。新聞やテレビをごらん。世界で何が起こっているか。それに肩を並べるものは描けない。僕はただそのイメージを描いた、恐怖を再現しようとしたんだ。」このようにベーコンは語っている。戦争体験を通して、その恐怖が絵を描かせた。人間を通して、人間の思想を通して、作品として表現する。その事が大切だと思っている。俳優が、犯罪者の心理の実際を分からなければ演じられないと言うので、犯罪を体験して見るとすれば、それは想像力の足りない俳優である。人間自体に想像して、表現する能力が無ければ、本当の事等表現できないと思っている。それは映像でも同じことである。作られる作品になり、その人間の思想を通した物の見方が加わり、真実の伝達になる。