田園回帰

   

箱根駒ケ岳 中判全紙 久野から描いている。箱根外輪山の向こう側まで久野なのだ。この絶好地点が、最近、柵が作られて入れなくなった。確かに不法投棄が目立っていた場所だ。

農文協の提唱した田園回帰のことが頭に残っている。この言葉にある、桃源郷願望的な響きが自分の心の何かに反応するのだろう。生まれは、山梨の藤垈という山の中の古寺である。田園ではなく山の中の1軒屋である。田園の響きにあるのどかさは全くなく、自然の厳しさが生きる事の切実さとして、常に感覚にある場所だった。その後東京に移ったのだが、その山の中に戻っては、ねぐらに帰る小動物の様だった。おじいさんとおばあさんがいた頃は、おじいさんとおばあさんが私の故郷だった。結局、都会暮らしになってしまったのだが、どうすれば山の中で暮らせるのかという事を、常に考えていた。そして、やっと山の中で暮らす事が出来るまでには時間が掛かった。結婚する前の30から本気で移住を模索していたのだが、やっと山に戻ったのは、30後半だった。結局自給生活を無理だと考えていた。絵描きを目指すには、東京に居なくてはダメだと思っていた。年に5回も6回も個展をするような暮らしをしていた。消耗する暮らしをしていると、何処かに回帰したいという事になるのだろう。

ついに山北の山中に越せたのが、大島噴火の時だ。年齢はすぐ忘れてしまうのだが、大島の噴火の火炎が赤黒く見えたという記憶だけは残っている。それで調べれば1986年と分かる。今から、29年前の事になる。夜山北に居たのだから、物置き小屋に泊っていた時代に見えたのだろう。土地を購入できたのはその数年前である。家をすぐ作るというより、その山の中を開墾して畑を作るような事を何年かしていた。今思い出しても一番おもしろかった頃だろう。一時間もかけて、山道を水を背負い上げていたことなど、大変だったというより、楽しくて仕方が無かったと思いだす。張り切って、張り合いがある田園回帰である。まだ、学校に勤めていて、その給与を当てにして、山暮らしを模索した。つまり私の田園回帰は、当時ある意味流行したヒッピー的な思想と言うより、帰りなんいざと言うような陶淵明の田園である。それは子供の頃の藤垈の暮らしが忘れられなかったという事が、圧倒的に大きい。

田園回帰はそうたやすくはない。幸い子供時代に、見よう見まねでやっていたので、何とかなったという気がする。私の田園回帰は開拓願望である。未開の地で暮らすロビンソンクルーソーや15少年漂流記の方が近い。田園と言うように出来上がった場所ではなく、手つかずの自然を、自分が暮らせるように手入れして自分の暮らしを織り込むという事だった。だから、山中の家の無いような場所を選ばざる得なかった。それには田舎の何かと、うるさい暮らしはご免だという、共同が出来ない内心の傲慢もあった。今思えば舟原で自治会長をやるなど思いもよらないことだ。田舎暮らしの堪らなさは、子供心に身にしみていた。あの深沢七郎の世界である。深沢氏の随筆には藤垈の事が出てくる。自分がどうであるかより、人にどう見られるかが、生きざまの選択になるような暮らし。本当の田園は鬱陶しい場所なのだ。それは当たり前で、地域に根ざして人が暮らすという事には、共同と言う事が必要なものだからだ。それを耐えがたいものとして、気楽な都会に出る。気楽な都会者は田園に憧れを持つ。ここがなかなか、意味ある所だと思っている。

田園は厄介だ。そもそも日本に田園なぞなかった。勿論古代中国にもなかった。存在しない厄介な場所だからこそ、なかなかのものだと、最近考えるようになった。ごみの分別講習会にも出なければならないし、あいさつ運動の日には、朝道路に出て挨拶が奨励される。家の周辺の一斉掃除の日がある。ボランティアと言う役員まで地域にはある。しかも、地域全体としては暮らしが分解されて、崩壊の寸前である。行政は自分の役割を減らしたいがために、協働を奨励する。田園地域では全体の調整が切羽詰まっていて、行政に依存度を高めざる得ない。「田園まさに荒れなんとす」政府は地方創成を主要課題にしている。人口減少に焦点があるようだ。人が多くなければ競争に勝てないというような事だろう。国際競争力の発想で地方が豊かになるわけがない。視点が経済偏重である。心豊かな暮らしをするためには、人はまだ多すぎる状態である。物に埋まって暮らす事が豊かだと考える事がおかしい。田園暮らしは、自助共同。新しい共同の模索だろう。脱ぎ捨てるべき古い外套を、又かぶろうとする共同では、息苦しいばかりだ。

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