絵を描く流れ

   

下田湾 中判全紙 ヤシの木が面白い。なんか変なのだが面白い。近いうちにこの先を描きに下田に行くつもりだ。

絵を描くにはそれぞれのやり方、それぞれの流儀の様な物があるようだ。よほど描きたいと思わない限り描かない事にしている。絵の事はいつもどこか頭の中にあるのだが、絵を描くことを毎日定期的に行うというような事は、しないようにしている。どうしても描きたいと気持ちが煮詰まって来るのを待っている。何ヶ月も間が空くと、描かなきゃなー。という感じが起こる事もない訳ではないが、そういうときに描いた所で何の意味もないと思って、受け流している。絵は訓練で上手くなるというような必要もないし、上手いは絵の外。そう熊谷守一氏は言われている。絵を描くには大した技術は要らない。それが絵の良さだ。デッサンをやらなければとか、絵の勉強をしなければ絵は描けないなどと考えるのは、絵の職人を目指す人の事だ。自分の絵を描く道は職人的技術は越えなければならない。そのよい証拠が、セザンヌとマチスである。二人とも描写的デッサン等全くできない。職人技術を絵だと考える人には、許しがたい、理解できない人ではないだろうか。しかし、分からないというのも癪だから、分かったような顔を大抵の繪職人の方々はしているだけだろう。

セザンヌが驚くほど不器用で、へたくそな人だったから、近代絵画の父に成れたのである。マチスが現代絵画の父である事も、余りにへたくそだったからである。二人とも上手な絵を描くことなどできなかったし、興味もなかったからこそ、新しい時代を切り開く事が出来たのだ。絵画の本質や哲学という意味で、まっすぐに本質に向かうためには、上手くなる事は関係のない以上に、害悪である。絵を描く上での重要な指針にしている。絵は自分の為に描いている。マチス以降の絵画は、私絵画の時代だと考えている。上手い必要など少しも関係がない。良いご趣味の絵とも、縁のないものだ。自分に分かるように描ければそれで、必要かつ十分なのだ。ヘタで沢山だが、自分の考えている事が表現されていなければならない。自分の考えを表すためには、自分の表現方法が必要になる。その自分独自の方法を見つけるという事が、大切な事である。それを何十年もやっている。マチスをまねた所で、自分から遠ざかるばかりである。良いなあ―と思った絵をどう忘れるかも大切である。

「考えていること」と簡単に書いたが、これがなかなか厄介なことで、自分の絵として考えというものには実に奥深い意味がある。頭に浮かんだ映像とか、目の前にある風景とか、そういうものは確かに考えを表す、一つの材料である。材料にすぎないとも言える。どうやって自分という存在のすべてを絵の上に表現するかである。自分とは哲学であり、思想であり、感性である。あくまで、画面というものはそうしたものを表す手段である。自分らしいとか、こういう事を考えているんだというような事を、どうやってそういう自分の本当の事を絵にできるかである。中島敦を読んでいたら、文字ではできない事も絵ならできると書いてある。これが絵の素晴らしさだと共鳴した。具体的には畑をやっているときの感じが絵に出ているかである。畑の絵をよく描きたくなるのはそういう事なのだが、畑というものを分かっていない限り、私の畑を描くことはできない。畑はきれいだ。田んぼは面白い。こういう事だけでは、上っ面を写すことになる。畑と作物、季節や、水土。そいうすべての反映を私絵画は求める。それでいつも出来たとは思えない。

だから、畑を耕さなければ畑は分からないから、畑は描けない。勿論これは私の場合である。海や空も良く描くのだが、自然というものの持つ絶対性の様なすごさに触れる時に描く。別段絵になりそうだから描くような事はない。あるとき突如描きたい虫が動き出す。絵は何十枚も見える所に置いてある。見ていて急に気付き、何かをきっかけに絵を動かす事が面白くなる。目の前にある画面を変化させてみる事に、興味が湧いてくる。現場で描いたものをわすれたころ、絵を壊す勇気が出てくる。現場で描いた何かを忘れる事が出来て、今ある画面の問題に入れる。この転換が出来るまでには、絵によっては何年もかかる事もある。見ているものを、自分の繪の中のものに、転換する様な心理的な作業があるようだ。この感じはまだ分かったとまでは言えない、何かそんな方向の気がするというだけだ。もう少し進めば何か見えるような気はしているのだが。

 - 水彩画