共同の手法

   

東伊豆の山 中盤全紙 海を挟んで山を描くという事が良くある。海と山と空という関係がいいのだろう。しかし、現実にはこういう場所は案外に少ない。

地域で暮らすには共同する事がとても大切である。集落全体が同じような暮らしをしていた時代は、当たり前のことで、結と呼ばれる共同作業で地域は成り立っていた。稲作は水路管理、代かき、苗代、田植えと、地域での共同なしには成り立たない。それが屋根普請に、家普請、道普請に消防と、祝儀不祝儀、すべてに地域が共同して初めて暮らしが成り立つ状態であった。しかし、現代ではそれぞれが外部に勤めに出る事になり、地域で形骸化しながらも残っている仕事は、ボランティアと呼ばれる種類のものになった。行政が盛んに市民協働の社会等と主張して、ボランティア集めをするという事なっている。これはまた自治会自体が、ブランティア団体となって、それは様々なイベントの準備から動員まで、過去を踏襲して行っている。まだ地域の意味を重んずる空気も残っているので、かろうじて自治会役員に成ってくれる人がいるという状況ではないだろうか。その認識は、どこの自治会役員も共通に感じている心配であろう。

社会には共同の仕事が無くてもいいかと言えば、そうではない。共同する精神が無ければ、上手く暮らしが回らないのも事実である。ただ、生計がそれぞれにかけ離れた状況の中で、暮らし方も多様になり、どのように共同を作り上げればいいのか、分かれ目に来ているという事だろう。それをボランティアだから我慢して、というような事では続かないという日本の事情がある。ボランティアはキリスト教社会から生まれた行為だ。キリスト教ではない日本社会で、上手く折り合いがつかない状況はその為に生じているのではないか。日本の伝統的慣習では、ボランティアが結である。沖縄のゆいまーるである。私の子供のころはまだ、山梨県の山間部では結の慣習が残っていた。結は経済で成り立つものではない。互いの暮らしの内実まで見通したうえで、ちょうどよいころ合いで行われていた。道普請をしなければ、互いの暮らしが成り立たないが、道普請に出れるのは、健康な働き手がいなければ無理だった。それがまた、地域のハレの作業というにぎやいだ空気を生み出していた。

そこには、経済を背景にした打算ではない、地域を支える誇りのような意識がある。やれるものがやる。そうしなければ地域が成り立たないという事情があった。ところが、山仕事にトラックが入るようになって一転した。道をトラックが入れるように直さざる得なくなった。直しても直しても雨のたびに轍に水道が出来て流れた。山も荒れたし、砂利道ではどうにもならなくなり始めていた。そして、道路は行政が担当するように変わっていった。このころから、そうした行政から雇用される土方作業に出る人が増えてゆき、暮らしは見違えるように豊かになった。あのころが一番格差のない社会だった気がする。誰もが電化製品の3種の神器を買いたいと横並びしていた。そして暮らしは個別化して行き、道普請に出られないなら、お金を出すというようになった。行政の役割はどんどん増加して、すぐやる課などという部署が生まれた。そして今や、行政は赤字財政でやっていた事が出来なくなってきた。そこで出てきたのが市民協働という事だろう。だから、ボランティア精神以外ではその意味を説明できなくなっている。自治会に入る事をさけたい、負担を感じる人は急速に増加している。入らないからと言って困らないのが現実である。極端に言えば、自治会の仕事が全くなくなった所で、暮らしはそれなりに動くだろう。

では共同はどうすれば可能か。これは農の会が行ってきた活動が可能性を示していると思う。農の会は入るのも出るのも自由である。誰かが利益を上げるという事もない。すべて折半である。やりたい者が手を上げてやれるという場があるだけである。その場を維持するためには、雑務も必要になる。これは持ち回りである。小麦を栽培して、パンを焼きたい。こういう人は、どこにも必ずいる。その人に場を提供する。それぞれの自由を確保しながら、初めて小麦を栽培してみるという人に場を提供する。5,6回の作業で、12キロの小麦粉を3000円の経費で賄うというのが目標である。田んぼであれば、月1回の作業で1万円の経費で、120キロのお米が目標である。大豆の会での味噌も似たようなものだ。誰かが犠牲になるとかボランティアで参加するという人はいない。やりたい人が必要な作業を行うというのが基本である。私が居なくなっても何ら影響しないだろうし、又私がいるという事が、互いにありがたいという関係である。初めてやりたいと思った人と、何年もやってきた人では、能力は違う。しかし、この能力の違いを考えないという事が大切な要素だ。

このように、一つのテーマを決めて、共同で行う事が重要である。地域の暮らしがそれぞれに分断され、特に地域でコミュニティーを作る必要は失われている。なんで自治会に入らなければならないのかと、主張する人が増えている。月々1000円ほどの自治会費が、それにふさわしい恩恵があるのかといわれる。昔とは違うという事だろう。暮らしの状況の変化を前提にした、新しい共同社会を考えるとするなら、子供の関係とか、趣味の関係、仕事の関係、そうした何らかの共通項で、共同社会を考えない限り、負担感が増加して、自治会はボランティアの持ち回りという事になるだけだろう。自治会というものに、期待していても、一期に大崩れしそうで怖い。地域に増えつつ弱者に対して、地域がどうやって対応して行くのか。ギリギリの所に来ていると思わざる得ない。

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