青空文庫

   

下田の海 中判全紙 下田湾を西側から見ている。中央の岬が水族館のある所だ。

最近一番読むのが、青空文庫の本である。青空文庫は青空のように誰でも無料で読む事が出来るインターネット図書館である。本には著作権というものがある。しかし、作者が死んで50年経てば、著作権は消滅し、万人共有である空の様なものになる。私が、高校生のころに死んだ作家のものは、著作権が終わっているという事になる。その事は、私がこの本は素晴らしいから公開したいという本を、ネットで公開してもいいという事である。しかし、そういう努力があちこちに散らばっていたのでは、読むほうもなかなか見つけにくい、そこで青空文庫という形で、文庫を立ち上げた人達が居たのだ。1997年7月7日 青空文庫設立呼びかけ人 富田倫生・野口英司・浜野 智・八巻美恵・らんむろ・さてぃ・LUNA CATとある。その素晴らしい発想と意見が、青空文庫の提案として掲げられている。と言ってもまだまだ何でもあるという事でもない。だからタイプを打って、大いに青空文庫に協力してもらいたいとある。協力してくれる人を工作員と呼んでいる所がまた良い。

富田倫生さんという方が青空文庫の推進には大きな役割を果たしたという事である。その方が、61歳という若さで亡くなられて、青空文庫の底本になった書物を、あの豊島に実際の青空文庫として、立ち上げたというのである。あのというのは廃棄物が山のようになった瀬戸内海の小豆島のそばの、豊島(てしま)である。環境運動の象徴の様な島で、環境運動にかかわったことのある者には、何かめぐりあわせの様な気になる。著作権などというものは、有害廃棄物の様なものだ。50年と言わず死んだら終わりでいいはずである。一個人の創造したものを、遺族まで恩恵を受けたいという事がおかしい。著作権はその作家が自由に創作を続けられる範囲のもので充分ではないか。アメリカはこれを70年にしろと、TPP交渉で主張している。日本政府も受け入れる寸前まで来ている。知的財産権というものを、資本の権利と取り違えている。青空文庫では70年延長説を暴論として、抗議の声を上げている。

青空文庫は現在、1万数千冊の本がある。まだまだ増えてゆく事だろう。青空文庫をよく読むようになったのは、タブレットを持って出かけるからである。電車の中で読んでいる。こうして読むようになって一番感じた事は、文章の力というものを痛感する。内容以上に文章に力のあるものとないものがある事に気付いた。良い文章を読んだ後、同じ視線で自分のブログの文章を読んでみると、どうにもならないという事に気付いた。しかし、文章がいいという事と同時に、文体の好き嫌いという言う事があるようだ。坂口安吾や、芥川龍之介の文章が好みである。やはりいちばん本をよく読んだのが、高校生の頃だったからかもしれない。その頃良く読んでいた人達が、もうすぐ著作権切れの人が多いい。しかも、現存作家より読み易いという事も、自分の読書歴が反映しているのかもしれない。最近の作家の文章になじめていないという事が分かった。

淡々と書く能力が不足しているのでないか。井伏鱒二さんが一番好きなのだが、その言い回しだけで引き込まれてしまう。絵でも同じで、内容の前にその描き方でだいたいの事は見えてくる。文章でもどうも同じなのだという事を再認識した。音楽にレコードが出来て、文学に青空文庫が出来て、絵画でも必ず高度な印刷技術が出来、本物と変わらぬ複製できる時代が来る。そのとき、ダビンチの繪と、マチスの絵と、自分の絵を並列に並べてどのように見えるようになるかは、昔から興味がある。そのつもりで絵を描いている。では本という活字になったものと、タブレットで読む物と何か感触が異なるかと言えば、そんな事は全くない。古い本の感触を再現したような、えあ草子という縦書きのもある。TEXTと言う横書きのワード文章と同じものもある。私にはどちらでも同じようだ。むしろ紙で読むときには後でその本がごみになりそうで嫌であった。

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