アベノミクスの審判

   

志賀高原 石の湯 中盤全紙 元ホテルだった所の廃墟。ここが取り残されたように美しい。何故か自然に戻りかける所に興味がある。遷移というのか、痕跡というのか。変化して行きながら、変わらないなにか。

安倍氏は解散のインタビューで、アベノミクス批判をするなら、それに変わる経済政策を示せと主張している。なかなかの突っ込みだが、悪いアベノミクスよりさらに悪いものしかないだろうという主張だ。日銀でも黒田第二バツ-カ砲には賛否が5対4で拮抗していた。経済政策というものは、一通りではない。特に安倍、黒田路線は円安で株高、輸出企業には恩典があるが、むしろ大半の国内産業には、円安負担が増加している。それが、GNPの下降に表われてきた。そもそも円安は日本の国力の評価が下がることだ。喜ぶようなことではない。円安が進み過ぎれば当然農業でも苦しくなる。今年は米価が下降気味だから、企業大型農業に転換した所は、補助金だけが支えという状況になっている。補助金で支えられても実力的には、国際競争力が無いという事なのだから、早くやめた方がまだましという結果が見えてきた。しかし、補助金の泥沼は、一度始めたら辞めることすらできない状況が、想像される。

問題は第3の矢の事だ。これがダメだった事はさすがに、安倍氏も認めざる得ないだろう。いつ第3の矢が放たれるのだと心配したときには、政府としては既に矢は放たれているという説明だった。つまり、その矢は誰にも見えないほど素早く通り過ぎたのだろう。まず、失敗原因の探求である。日本の経済の停滞は、労働人口の減少、少子高齢化である。と政府は説明している。そこで、女性の投入、外国人研修生の受け入れ、年金支給を遅らせて、老人の労働力化。これでは上手く行く訳が無い。本当の原因はどうしても買いたいようなものが無いという事にある。消費意欲の衰退である。もう普通の暮らしには物余りである。だから、販売側としたら下取り戦略である。背広を引き取らなければ、箪笥が空かないのだ。テレビを買うならテレビの下取りが必要になる。必需品は出回ってしまったのだ。パソコン需要でも、携帯電話でも、それが無いのではなく、魅力的な次の機能が出せるかの競争になっている。もう余分な物は要らない。

経済先進国の消費の傾向は、満腹な所にさらに食べたくなるデザートを、別腹と言って勧めているにすぎない。拡大再生産の資本主義が限界を迎える。中国や中南米、アフリカ諸国を食い物にする以外に方法が無い状態。世界全体がどこに収束するのか、経済成長は終わりである。これからの時代は、物の所有ではなく、感覚がより味わい深いもに向かうかが主題になる。収入も増えないが、安定して暮らして行ければいいではないか。暮らしの中の人間としての幸せな生き方を深められるのかへ、価値観を転換をしてゆく道筋である。それを不時着地点と呼んでいる。だから江戸時代を見直す必要がある。江戸時代は上昇できない社会だ。その中で、いわば金魚の改良に人生を費やすほかなかった。盆栽も、日本鶏も、寒蘭も春蘭も、俳諧連歌も、和歌の道も、茶道も、武士道すら同様である。里山の暮らしがまさにそこにある。物から文化への転換である。物を消費する満足から、自分の知性を味わう満足である。受け身ではなく、自分の行動による知の満足である。

安倍氏に対する対案は、教育の転換である。教育の方向を変えることだ。実務的な教育から、人間性の教育である。経済から文化への転換である。絵を描くということを職業と考える人もいる。しかし、お金にならなくとも絵画というものへの興味で、生涯を費やす人も認める社会。絵を描くことが本当に面白ければ、経済とは関係が無い。修行僧などというものは、何にもならない事を価値とするくらいだ。農業をするにしても、農業を行う喜びの方に価値を置くことだ。その為には教育の転換である。江戸時代であれば、天皇家というものはそうした文化の、農業の象徴であった。文を持って治める。人に勝るという事でなく、自分というものを深める価値である。まず、ここに価値観を変えれば、日本の経済の行き詰まりもほぐれてゆく。他人との競争から、自己新の思想に変わることだ。

 - Peace Cafe