米価の下落

   

沼代の畑 中盤全紙 最近良く描きに行く、小田原の沼代の畑。沼代はむしろ二宮町であって、小田原から見ると少し遠い。このあたりの畑は良く耕作されている。場所によっては海も見える。

ハザ掛けが終わった田んぼ

やっと稲刈りが終わり、ハザ掛けまで終わった。後、脱穀と籾すりである。大雨と台風が通り過ぎて、厳しいぎりぎりの稲刈りだった。休暇を取ってハザ掛けに来てくれた人までいて、何とかここまで進んだ。すぐに次の心配は台風19号である。これが来る前に稲が乾くかどうかである。今年は12日が神山神社のお祭りである。自治会長なので休むわけには行かない。今年は厳しい年になっている。毎年そうなのだが、収穫の前に秋祭りが来る。日程が早まったということなのだろうか。本来なら収穫祭ということのはずだと思うのだが。毎年、お祭りのさなかに、農作業というのではいいことではないと思うが、まだ稲なりの終わらない田んぼはかなりある。

お米の値段が下がっているそうだ。お米を買うという事も、売るということもないので、あまり価格については、敏感ではないのだが、値段が下がれば作る人は減る。一キロのお米が370円くらいに成ったと書いてある。お米が余っていることが値下がりの原因とも書いてある。お米の生産量が増えたというより、お米を昔ほど食べなくなったということで余っている。昔は食事のことをご飯というくらいで、ご飯だけを食べていた。1食で一合も食べると言うことで、今の倍は食べたのだから、考えればご飯の食べ過ぎである。子供の頃は、お代わりしないと怒られたものだ。沢山食べる子供が元気な良い子だった。自給ということでやれば、お米中心の食事に成る。肉や魚は食べる機会がぐんと減る。私は魚は結構購入している。この点原理主義的自給ではない。

お米は作ってみれば分ることだが、他の作物より楽なのだ。田んぼという特殊な条件の作物を主食にした。主食は安定的であり、連作が出来ると言うことが大切である。その為に稲作は東洋3000年の永続農業の根幹に位置してきた。自然の循環の中に、上手く織り込まれている。耕作するということが、自然環境を破壊するのではなく、自然との調和を図ることのできる農法であった。こうした、自然の手入れをしながら、自然と対立しない暮らしが生み出された。このことがある意味特殊な日本人というものを育んだのだろう。集落単位で共同する暮らしである。集落全体が、共同作業をして、水を分け合い、自然環境と上手く折り合いをつける。水という要素によって繋がってゆく暮らし。遊牧民にとって、家畜が特別な存在であるように、日本人にとってはお米は、経済を支えるものでもあると同時に、信仰の中心に据えられるようなものに成った。三角おにぎりは魂の形である。

こうした歴史的に日本人と結びついてきた稲作が、いよいよ変貌する時が来ている。お米が純粋に商品の一つとして扱われる時代である。資本主義経済というものは、心の問題を越えて、すべての物を商品に変えて行く。このことが日本人にとって、どういうことに成るかである。すでに、日本人の変貌に現われていて、日本人の性格はずいぶんと変わってきている。江戸時代に形成された、日本人的な性格は相当に失われてきているのだろう。一番は「共同」ということである。共同が競争に変わったのだ。田んぼであれば、我田引水では通用しなかった。自分さえよければという個人主義は通用しなかった。その分、裏でいじましい性格や、村社会での窮屈な暮らし。自由で、のびのびとはしなかったのだろう。それが、個人主義、民主主義が素晴らしいものだと、一気に広がった背景にある。しかし、共同するがボランティアに成って、その背景と成る思想のない社会。このあたりのゆがみがさらに広がって行くことだろう。

私達農の会では、昔ながらの稲作を行っている。経済効率からいえば、バカバカしいようなものだろう。国際競争力など、全くない。しかし、地場・旬・自給の考え方は、次の時代の軟着陸地点だと考えている。力を合わせて、稲作を行うことで周辺の農家よりも収穫も多い有機農業を実現している。お米の値段が下がっているとしても、自分で作るということから、受け取っているものは極めて大きいものだ。人間が生きるという原点を確認できるということがある。自分が作ったお米が自分の肉体を支える。お米を作る為には、土と水を育まなければならない。自然と調和しなければ、お米が作れないとい言うことを知る。自然を観察し、自然を感知する能力を高めなければ、お米が作れないということを知る。こうしたことが人間を育てる。稲作が日本人を作り出したことは確かである。その米作りを止めた日本人はどこに行くのだろうか。

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