右翼という言葉

   

白い家 1号 顔料で色付けした紙 紙の様子を見るために、ためし描きをしたもの。それが捨てられなくなって、残っていた。

右翼という言葉が時々使われる。左翼という言葉もあって、左翼は私が時々言われるレッテルのような言葉だ。私も右翼という言葉を時に使わざる得ないことがあるが、出来る限り使わないでその意味を書きたいと考えている。この分類が意味を失っているように感じるからだ。左翼の方は老齢化しながら頑固に形態を守っている。若い人は現われない。言葉にしがたい枠の右翼の方は、若い人も現われながら、実に多様に変貌している。国家主義者、軍国主義者、国粋主義者、保守主義者、愛国者などだが、そのいずれでもない右翼も存在する。それぞれの言い方では、少し意味が見えてくる。右翼という言葉はいずれとも同じではない。右翼と言うレッテルの中身が、大きく変化してきているということを感じる。右翼と言うものと、暴力団と言うものも、親戚ぐらいに見えていた。戦後の社会はそういう時代だった。暴力団が右翼的な見てくれを使って、社会的な位置を示したかった時代もあった。暴力団しかアメリカ軍に対抗できないということも、暴力団右翼の登場の要因である。今は明らかに違う。ヘイトスピーチをやっている人達を見ると、暴力団でもないし、右翼と言う枠に入るのかもよく分らなくなった。

ネトウヨと呼ばれる人達もいるらしい。これは文章だけしか見えて来ないので、それらしいイメージの中に隠れている。イメージに隠れて、しかしかなりの組織的な、たぶん暗黙の、連携を取りながら、ネットの世界で文章をばらまきながら、これも違うとは思うのだが、愛国的言説を振りまく、自己主張に酔っているだけの様だ。私のブログのコメントにも、ヘイトスピーチと言えるような文章が時々載せられる。私の場合は、こうしたネトウヨの文章がいかにひどいものかを、浮き上がらせたいという考えもあった。どういう卑劣な連中であるかを世間に知らしめたいと考えている。ネトウヨは言葉的にはどこで学ぶのかよく似ている。実に小賢しいく、ずるがしこさを学習をしている。無名性をいいことに、言いたい放題である。犯罪ともいえるような暴言を平気で使い、いやがらせをして自由な言論を阻止しようとする。まだ残してあるので、どんなものかこのブルグのコメントでも確認ができる。ピンからキリまでいるのだろうがパターンは存在する。いずれにしても、中国と韓国と北朝鮮の悪口に至る。同時に私に対して、日本人でないとか、スパイとか、売国奴とか使う。絵がひどいという面白いのもある。

戦前の日本にも庶民に根付いた近隣諸国の根拠のない差別的悪口が存在した。それは、明治政府の富国強兵の推進策の結果である。明治の文明開化による白人コンプレックスの裏返しなのだろう。白人の縫いぐるみをかぶって、東洋人をいやしめるような情けない皇国意識が感じられる。これが徐々に暗い情熱になって、大東亜共栄圏を日本が指導して行くというような思い上がった意識になったのだろう。江戸時代の鎖国意識による世間知らずが、文明開化で跳ね返った結果である。この思い上がりを砕かれたのが、アジア太平洋戦争の敗戦である。そこから、戦後社会は這い上がる様に日本人がひたすら経済に努力したのは事実だ。軍事力にかかる力をすべて、経済発展に注いで、経済競争に勝ち抜いてきた。それは、アメリカの後ろ盾を上手く利用しながら、国内の充実を図ってきたという、国粋主義的には大きな不満を残すものだ。ところが、その最大目標であり、日本人共通の戦後の価値観であった、経済で勝ち抜く構図が、揺らぎ始めた。

日本の経済が一度は上り詰め、相対的に位置が下がり始めると同時に、今まで日本との妥協を受け入れていた近隣諸国が反旗を翻したように、日本に対して批判を始めた。この姿に対し、不安と欲求不満が高まっているのだろう。これが現代の漠然とした右翼の姿なのではないか。日本民族の優秀性を主張するというより、近隣諸国の悪口を言って、憂さ晴らしをしようと言うような、後ろ向きな態度。自分が上手く行かないのは、自分が悪いのではなく、回りが悪いからだ。わがままな子供の泣きじゃくるいい訳である。このような人達の代表的人物が田母神氏とか、櫻井よし子氏に見える。そう考えると少し現代の右翼的傾向の姿が見えてくる。元自衛隊幹部と、元著名アナウンサーである。私には明治の初期の人間のように見えてくる。一見筋が通っている様な言説を吐くが、向かうべき国家像が明治の富国強兵時代の様である。そのうち日本人はちょん髷で、帯刀すべきぐらい言い出しそうである。

 - Peace Cafe