はだしのゲンの撤収
鎮興 10号 中国の絵である。時々描くのだが、何故なのだろう。
はだしのゲンを教育委員会の判断で撤収をすることになる。はだしのゲンは原爆の悲惨さを描いた漫画らしい。私はこの漫画の絵が嫌いなので、読んだことはない。しかし、「きちがい」「こじき」「ルンペン」というような差別用語がつかわれているために、差別を助長するという撤収の理由付けが不自然な気がする。小中学校の図書館から撤去するという理由には納得がいかない。もし、そういう理由を徹底するというなら、差別的な言葉が使われた、一切の図書を小中学校の図書館から等しく撤去すべきだろう。市長が本音としては、はだしのゲンの思想が気に食わないのだ。また、はだしのゲンを反戦平和の旗印にする、運動が気に食わないのだ。それならそれで正面からそのことを議論したらいい。たまたま使われた差別用語によって、思考停止状態になるのは、いかにも教育的でない。教育的でないことが、教育委員会や市長の姿であるということを、世間にアピールしているようなものだ。
教育とは、差別のような社会的な矛盾から、子供たちを隔離することではない。子供たちは差別的なものであるし、生きものはすべてそういうものだ。その生命というものの実相に従って、人間が差別のない社会を作る為の努力が教育である。差別的である現実に正面から向かい合う姿勢がなく、臭い物に蓋をして置いても、何の解決にもならない。一部の差別用語をあげつらうなど、無意味というより有害なことになる。却って、市長や教育委員会にある差別的体質を、子供たちはかぎ取るのだろう。そうして、陰湿ないじめのようなものが横行する。乞食という差別用語を回避したとしても、路上生活者に対する襲撃事件は後を絶たない。学校でのいじめ事件も頻発している。むしろ、競争社会という、現実社会を教育がどのように向かい合うかが問われている。受験競争がある。勉強が出来れば、競争に勝つ。競争に勝つという目的がすべてに優先される。他人を蹴落とすことが強者の論理として奨励される。
こんな環境の中で、きちがいとこじきという言葉を敵にした所で無意味だろう。弱者へ思いを巡らせることのできる人間に成るためには、競争の原理に正面から向かい合うことだ。競争は自ら内側の努力に、向かえばいいことである。他人と較べるということの限界を知ることだ。優秀で一流大学に入れば、今度はその中での競争があり、大学院に入り、一流企業に入り、権力者に成ったところで、常に競争する相手が存在して、何万分の1しか勝つ者はいない。大多数が敗者である社会は、能力主義という差別を認めた。どこかに不満のある社会ということになる。それがいじめ社会を生む。誰もが不十分でもいいという社会、誰もがそれぞれの生きるを十分に味合おうという社会。他社との競争より、自分の生きるを深める社会。競争の次にある社会を目指さない限り、人間の幸せはない。それが菩薩道である。一人の人の不幸があれば、自分も悟ることはできないという、誓いである。
以前、物見の塔の人が冊子の宣伝に良く来た。しかし到底読む気に成れなかった。それはそこに出ていた、絵柄のきみ悪さである。その後絵は変わったらしい。内容は読んだことがないから知らないが、あんな絵を冊子に入れる感性が、私の絵を描く感覚に悪影響があるとしか思えなかった。はだしのゲンを読む気に成れないのは、あの漫画の絵である。たぶんああいう種類のものだろうということが絵に出ている。子供たちに読ませた方がいいとも思わない。しかし、そのことを正面から議論せず、差別用語がつかわれているからなどと言う、ことを理由にする姑息にも耐えがたい。今回のはだしのゲン撤去は、教育委員会の市町村長の任命制の危険を表している。偏った市長は良くいる。その一人が自分の個人の考えを教育に押し付ける危険は、出来るだけ遠ざけておく必要がある。何かを決める場合、まだろっこしくとも、遠回りの方が良いというのが、民主主義的だ。