農の会の田んぼの会について

   

伊豆東海岸 10号 

農の会の通信の原稿依頼で、田んぼの会の歴史を書くようにということである。田んぼの会変遷には、グループの田んぼと、個人の田んぼがある。その後農家を目指した人も出たため、農家の田んぼもある。その境目のような田んぼもある。最初に行ったのは不老山塩沢の田んぼである。山北で有機農業研究会でやろうとした田んぼが、突然自然農法でやるなら水をやらないと水利組合から言われて中止に成った。このことが発端である。山北有機農業研究会というものを、1993年に作った。色々活動する中で、田んぼを一緒にやろうということになる。後に、山北の町会議員に成った茂木さんという養鶏をされていた方の発案だった。山北田んぼに加わっている川口さんも一緒だった。田んぼが中止に成ったということを聞いた、CLCAの和田さんの谷峨に居たお姉いさんの紹介で、田んぼが出来るようになった。山北で一緒に活動していた人は加わらず、CLCAと酒匂川フォーラムの協力を得ながらの田んぼ活動に成った。

最初の田んぼは18年前に成るようだ。山北谷峨から奥に入った所に、塩沢集落がある。そこから川沿いに20分ほど不老山に登った、隔絶した田んぼだ。江戸時代、薪炭林が盛んだった時代に、小山町と交流のあった炭焼き集落の田んぼ跡を開墾した。岩盤にトンネルを通して水が引かれていた。ここで始まった田んぼを3,4年やった頃に、顧問の石綿さんを通して、坊所の田んぼが借りられることに成る。坊所田んぼの実践で、今のグループ田んぼの原形が出来る。「地場・旬・自給」の為の田んぼグループという考えができた。

その後次々に新しい田んぼグループができる。大体の田んぼの一年目には、参加してきた。桑原のメダカ生息地の田んぼは、顧問の沖津昭二さんの指導だった。今娘さんの高橋ユキさんが小麦の会、大豆の会に参加されている。農の会の創設にかかわった、酒匂川フォーラムの山田純さんの発案である。現代表の諏訪間さんなどと一緒に、メダカの生息地の保全も兼ねて桑原田んぼが始まる。その後桑原には4グループ出来た。桑原では春水田んぼが行われた。南足柄怒田に千田さんの奥さんが始めた、女性の田んぼというものもあった。家具作家の安藤さんが中心に始めた長塚田んぼ。山北に越してきた山下さんが始めた山北田んぼ。音楽家の青さんと、今奈良に越した中原さん中心に始めた新永塚田んぼ。青さんはその後独立して、個人田んぼを続けた。内山では、瀬戸琢二さんの協力で川口式農業でやった内山グループ。中井町で井上さんと保育園の人達で行った田んぼグループ。ここでは中村さんと出会うことになった。その中村さんを中心に、大磯わくわく田んぼが出来る。市長に成った加藤さんがやった現在の今屋さんのやっている大沢の田んぼ。

そして、桑原から引っ越した金井島の親子田んぼ。西大井ではこぶた畑の相原さんが行った田んぼもあった。内山田んぼはその後色々の人がかかわり、場所も少しづつ移動して、現在夢田んぼとして継続されている。穴部田んぼは創生水を使った田んぼだったが、創生水というものの効果は無かった。路上生活者の自立の為のこっこ牧場田んぼは坊所にあった。坊所には阿部さんの行った旭ヶ丘高校田んぼもあった。山北の前田さんがやられた田んぼは、現在川口さんがやられている庭園田んぼになる。大井町では海老沢がおこなった田んぼ。最初グループで行った白鴎病院の裏の田んぼは、現在くだかけの和田さんが継承している。大井町では渋沢のソバ屋さんの田んぼもあった。南足柄和田河原で行われた田んぼ。そして再度、鬼柳でのメダカ田んぼ。まだ抜けているものもあるかもしれない。

坊所田んぼは参加者が増えて、舟原田んぼを拡張する。舟原田んぼは、さらに欠ノ上田んぼと連携して行く。久野地域には子ノ神田んぼグループという形で3人での自給田んぼもできた。山室さんも舟原で田んぼを行っている。久野に5つの田んぼが存在して、1ヘクタール少しを耕作している。田んぼグループは一か所2反前後が多いい。グループとして継続されているものが10か所。10年を越えたものもいくつかある。個人として独立して行く田んぼも増えてきた。特徴としては、それぞれの農法でやっていて、2つとして同じ田んぼがないということである。  

 - あしがら農の会