小野田寛郎氏の死去

   

妙高高原 妙高岳も素晴らしい山だ。日本海からの雪雲に立ちはだかる。実に雄大な山である。
どこから描いても面白いのだが、やはり春先が一番である。水彩画の友人である河原崎さんという方が、静岡からわざわざ寒い場所に越して、山の中でペンションをされている。

小野田寛郎氏が91歳で亡くなった。印象深い人であった。生まれは和歌山県の人で、父親は県会議員の名士である。4人兄弟でみんなさん極めて優秀な人のようだ。長男の方は確か東大の医学部を出たお医者さんであったはずだ。その中でただ一人中学を出てすぐに、外地に就職したというのは、地方の名家の子息としては珍しいことではないか。それに伴って少し複雑な気分を持っていた人かもしれない。そして中国の就職先から20歳で招集され軍隊に入隊する。たぶん優秀であり、また頑張ったのだろう。特別に選ばれて陸軍中野学校に入学する事になる。同じような経歴で中野学校を出た本巣興隆先生という人が、中学の先生に居た。この方は、中野学校から戦争体験のことを深く後悔して、僧侶になった方であった。一緒にお寺に行ったことなどもあり、様々な話を聞かせていただいた。中野学校へ入学する人の選抜法や、その後の教育の徹底して居たいことなどである。小野田氏がフィリピンに残留し、野戦を継続し、日本軍がもう一度戻ることを29年間待っていたことは、何の不思議もない。本巣先生もそういう方であった。

その前にグゥアム島から帰還した横井庄一さんという普通の兵隊の人が居た。この人の場合は、ジャングルでの生活術が驚異的であった。観光地の日本から新婚旅行の団体さんが通り過ぎる、脇のような森かげで、28年間隠れて生き抜いていたのだ。ありとあらゆる工夫を行い、自給自足で生き抜いたのである。羽田に降り立ったときに、「横井庄一恥ずかしながら、帰ってまいりました。」と挨拶をして、それが流行語になった。心ならずもそう言わないといけないものだと思っていたことが分かった。一方、小野田さんは違う。戦後30年中野兵学校の教育に従い、戦闘を継続していたのだ。ルパング島の周辺住民、30人を殺害したとされている。村を襲い様々なものを略奪して暮らしていた。小野田少尉には小塚金七さんという部下もいて、部下が殺されたのが、戦後28年で最後の戦死者である。小野田さんは小塚金七さんの敵を打つつもりで、その後も戦いを続けた。鈴木さんという不思議な青年が、ルパング島で小野田さんとついに遭遇する。あれこれ経緯の後、最後には投降することになる。たぶん、30人も殺害したことの処理をフィリピン政府と調整していたのだろう。

部下の小塚金七さんは農家の出で生活術にたけており、この人のおかげで小野田さんは生活術を身につけることが出来たのではないかと思われる。日本の百姓の生活術は世界一かもしれない。侍より、百姓である。小野田さんは日本兵の生き残り兵を集めて、小隊を作り戦っていたのだ。小野田さんはラジオを略奪して、日本からの放送まで聞いていた。新幹線のことや、東京オリンピックのことなど、復興した日本のことを熟知して居た。近いうちに、フィリピンへもう一度日本軍が来ると考えていたらしい。ところが日本の方は、中野学校精神などとうの昔に忘れていた。このギャップのようなものが、衝撃的だった。ああ、、これが日本軍人なのかと、なんとも言えない嫌な感じを受けた。軍隊はこういう人間を育てるのだということを忘れてはならない。

横井さんや、たぶん小塚さんは庶民である。江戸時代がまだ体の中に生きているような感じだった。横井さんは注目されついでに、参議院選挙にまで担ぎ出されてしまった。もらった百万円を何億円だと考え、大喜びしたらしい。小野田さんは即座に、靖国神社に奉納した。大多数の日本人は横井さん的と言える。あの伝統的生活術こそ、注目すべきだ。略奪どころか、どこまでもひっそりと、自然を改変することなく、ジャングルに溶け込むようにしていたのだそうだ。同じ所を歩くと、踏みわけ道が出来てしまうので、移動では主に小川の中を歩いたと言われていた。しっかりした洋服まで作り上げていたのだ。だから、案外にぎやかな場所に居たのに、そこに旧日本兵が居ることに誰も気づかなかった。最後には、衰弱して救出された。小野田さんの場合はいることは初めから分っていた。しかし、いくらビラをまいても出てこなかったのだ。もう少し早く出てくれば、小塚さんは日本に帰還できたのである。その判断の間違いを隊長の小野田さんは分っていたのだろうか。

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