水彩人の水彩2
実は水彩人の水彩ということで、話してほしいということだったが、最終的には私の水彩画という、無難なものだが、私には荷の重いものに変更されていた。私と付いた、話は出来ないし、意味がないと思うので、事務所のIさんに、事前に話し合う必要があるのではないかと、お願いをしたが。大丈夫でしょうという返事だった。何が心配で、どんな調整が必要か私にもよく分らないのであるが、「水彩人の水彩画」というものを、どこまでも考えてゆきたいというのが、今回のワークショップの立脚点である。確かに水彩というものの考え方は同人18名が異なるであろう。当たり前のことである。違うから話しても無駄だというのではなく、違いを知り、考えを深めるという意味で、同人である以上頭を向けなければならない。絵描きの集まりではあるが、少々ややこしく理屈ぽいのが、水彩人だと思っている。
水彩画というものは、分野が確立していない。下書き程度のものとの認識というのが、商業絵画の世界の位置づけである。それでも水彩人の搬入日に、松波さんと小野さんとあれこれ話してみたら、少し感じがつかめてきた。以下そのメモである。松波さんは「私の」とあえて入れることが大切という意見だった。それでは良い議論にならないというのが私の考えである。「私の」哲学と言われてしまえば、議論が始まらない。一般論として水彩画をこう考えると、言うことになれば、いやそれはこういう面でおかしいのではないか。と議論が始まる。「私が」防御線になるのでは、水彩画というものがどういうものかが、水彩人の水彩画が煮詰まることがない。
もう一度水彩という材料を整理してみる。
まず材料的な意味から生ずる一般的性格。
1、仕事が早い。
2、明るいところから、暗い所に向けての仕事である。
3、透明色が基本で、その重ね塗りが特徴である。
それがどのように実際の制作に関係してくるか。
1、一般に水彩紙という、白い平面の上に描くことが多い。水彩絵の具が透明性が強いため、この白い紙色が、絵に大きく影響を与える。もちろん水彩でも色のある紙に描いたり、水彩キャンバスに描く場合もあり、下塗りを行う方法もある。あくまで一般的にという意味。
2、水で溶かして、薄く描くことが多い。他の材料より、薄く着色することが出来る。これは材質感というか、物質感が乏しいということになる。ただし、水彩だから透明で、薄いと限定してしまうことはできない。水墨のような薄さとは異なる点が重要。
3、水を使うため、乾燥の速度の調整が自由で幅がある。作業の早い速写性もあるし、たらしこみのような、時間をかけてのしごともある。ただし、仕事が手早く出来ることから、要点を素早くつかむような場合や、絵の構想のメモを取るようなことがやりやすい。
4、客観的な細密描写に向いている。油彩画より材質感の表現には劣るが、ボタニカルアートや、科学的表現の客観性があり、標本画に使われる。速写生と細密性の、二つの対立されるような性格が、融合するところが特徴ともいえる。
5、水墨画や書のような多様な筆触が表現可能である。筆触は書道では表現のほとんどを占めるように、人間の感じている物を、微妙に反映する能力が高い。そのために、人格が反映していると、東洋では考えられてきた。水の変化によるにじみによる表現という偶然に起こるものを、自然がもたらしてくれる美として、自己と自分にはどうしようもない世界というもが、出会う場としての絵画として意識されている。
6、頭の中に湧くイメージのようなものを捉えることに向いている。頭の中の空想は、ぼんやりもやもやしている。平均的に言えば、水彩画が頭の中に湧いてくる映像に近い。この性格が、水彩を多くの人が下図のアイデアスケッチに使う理由ではないか。セザンヌのように、構想をしつこく試行錯誤して行く作家には、油彩画がふさわしい。しかし、その最初の骨格をメモしたような水彩画は、セザンヌの本質に直接触れることが出来るような、魅力がある。
○水彩絵の具を使っているから水彩画という考えは、間違えである。又つまらない話である。水彩人展では応募要項では、水溶性絵の具を使うから水彩画であるということになっている。が。これは便器的な意味で、本質的な水彩画論としては、こうした区分けは意味がない。素材は重要な要素ではあるが、むしろ、水彩の特徴を生かして描く、油彩による水彩風の絵というのもある。わざわざそういう無理なことをする必要があるのかということだ。
○透明性だけで描かれているものだけを水彩画というのも意味がない。水彩の透明性を生かして描く水彩画ということだろう。
○まず、水彩人同人18名の絵が水彩画にふさわしいものとと考えていたが、そうとも言えないなと今は考えている。水彩画の限界に位置するような作品もある。しかし、この限界に位置するようなものも水彩画の一部であると言えるぐらいに今は思っている。限界を排除することはないが、水彩という材料を生かした制作を感がてみる必要はあると思っている。水彩の中に異質なものがあると、悪く目立つということがある。目立ちたいから、水彩らしくないことを特徴とする、という精神が現われてくる。この場合は井の中の蛙である。