学校利用基準値20ミリシーベルト問題
これは4月19日に政府の原子力災害対策本部が旧原子力安全委員会の助言を得てまとめた「福島県内の学校の校舎・校庭等の利用判断における暫定的な考え方」で、毎時3.8マイクロシーベルトの空間線量率未満であれば平常通りに利用しても差し支えないと公表した。これが、学校利用の基準値として、年間被ばく量20ミリシーベルトになる。
4月25日に開かれた小佐古敏荘内閣官房参与の涙の辞任会見を覚えている人も多いいだろう。何が正しいかわからないときに、優先すべきことは何か。政府は、文部省は何を重視したのかが、良く分かる事件だ。私には今持って、20ミリシーベルトが危険なのかどうか。そういう事は分からない。現在、20ミリシーベルトまで除染出来たら、住民は戻ることになっている。しかし、国民の4人に一人はがんになる。がんと言われた時に、あああの時の放射能汚染はと、嫌な思いがよぎるだろう。この国は国全体の安泰の為には、弱者を切り捨てて何とも感じない国であるという事を、しみじみと味わうだろう。日本国と云うものと、個人の関係を痛切に感じた事件だった。現在、児童の年間被ばく量1ミリシーベルトになっている。いっときとはいえ政府自身が現状の20倍もの被ばく量を児童に課したのだ。許されざる事態である。この犯罪ともいえる事態の経過を、西﨑伸子(に福島大学行政政策学類・地域環境研究室准教授がシノドスに書かれている。
この年間20ミリシーベルト問題に対する、文部科学省の考えが示されている。一つの考えであり、一度も間違えたことはないという事が、理路整然と示されている。20ミリはあくまで暫定的なもので、目標は当然、1ミリであった。しかし、毎時3,8マイクロシーベルトを変えたわけではない。官僚的説明が今もとうとうと書かれえている。この態度に私はやられた。完全にへこたれてしまった。暗い絶望的な気分に支配された。真綿で絞めつけられたような、やり切れない日本国の支配体制を感じた。それは民主党とか、自民党とかそうした次元の事ではなく。日本人と云うものの持つ、いや―な臭いのようなものだ。それは当然自分を含めた怪しさである。原発爆発以来この黒い霧は晴れない。その堪らなさが、文部官僚の書く文章に傲慢にある。この傲慢さを、当の本人が気付かず、賢くコナシタつもりなのだ。嫌な国ではないか。確かに、北朝鮮の悪一族の支配は分かりやすい。ごまかしはない。清々と悪である。
この日本国を支配する空気は、馬鹿げた善人の仮面をかぶっている。当の本人すら、善人の仮面をかぶっているうちに、その寒々しい表情が張りついてしまい、仮面であることすら気付かないくなっている。そういえば、最近テレビに出てくる人は表情がない。地デジ化とかで厚化粧になったためならいいが。何かが干からび始めているように感じる。すっかり感情の泉がひび割れている。今度の政府は、自分こそ一番の国を思う憂国の士だと思い込んでいるから、不安を感じる。世間の自分のことしかわからない有象無象の国民を何とかしてあげようと、熱心なつもりである。政府とは別枠で生きてゆくしかないのかというのが、最近のあきらめである。自分は自分でやる。電気を使えば、原発の電気を使っている癖に何を言うのか。そういう声が聞こえる。自給電力である。国の世話にはならない。
昨日は飯館の18代続くという畜産農家の若い後継者の方のお話を聞いた。北海道で畜産の再開を目指しているそうだ。いつ戻れるかわからないが、自分は無理でも、次の世代、その次の世代になって飯館に戻れる日が来るのを待つと言われていた。放射能の不安は人それぞれだから、お互いを認めることと言われた。印象的だったのは、感情を表現しなかったこと。自分の感情をそのまま表現しても、理解されないと考えているのだろうか。無意味と考えているのだろうか。加害者にも痛みはあるという認識を言われた。もっと抗議していいと思った。怒りに疲れたのか、そうした旧家の方の持つ忍耐力なのか。18代に渡りご先祖が築いてきた土地を人の住めない土地にしたことの罪の重さ。これは、文明の方角の間違いである。原子力は人間が取り扱うべき技術ではなかったと、改めて思った。
昨日の自給作業:田んぼ作り2時間 累計時間:13時間