体罰と運動部
高校時代陸上部に居たのだが、陸上に興味があったというより、唯一体罰がない運動部と聞いたから選択した。暴力は教師だけではない。先輩からの暴力もひどいものが運動部にはあった。大阪で顧問の教師による暴力事件から、キャプテンの自殺が起きてしまった。しかもこの教師が暴力指導の常習者だったようだ。周りの教師もこの暴力教師を止めることが出来なかった。その背景にあるものは、厳しい指導が無ければ、強いチームは作れない。勝つチームは出来ないと言う。スポーツに対する脅迫観念がある。厳しい指導がなければ弱小のクラブになる。こうした事件が起これば、必ず、厳しいスパルタ教育が、運動部には必要だ。こういう現実論が一般社会では語られる。その意味を考えてみたい。建前でなく、高校の運動部とは何かを考える必要がある。
オリンピック選手などというものは、天才である。大多数の並みの人間は、異常ともいえる努力で、その競争に加わろうと言う事になる。私も、一時期そういう練習をしたことがある。ところが、足のくるぶしが異常に腫れてきて、軟骨が飛び出してきた。歩けなくなってしまった。走るどころではない。練習しては休みの駄目な陸上部部員になってしまった。身体がそれに耐えられたら、どうなっただろうと思うことはある。プロ野球の桑田選手が、小学、中学の体罰を語っている。PL高校時代は体罰が無かった。プロを目指す天才の集まる、PL学園では体罰はいらなかったのだろう。PLの野球部に入るためには、体罰が必要だと考える人もいる。強く成るためには体罰を必要だと考えるプロ野球選手が82%だそうだ。ダメな人間をしっかりさせるには、少々の暴力は必要だ。こういう教育哲学が無責任に存在する。体罰は我慢する人間を作る。しかし、我慢する人間は生み出す人間ではない。
強いことは良いことであり、暴力教師の存在価値は、競技に勝つことである。勝って褒め称えられ、この学校の不可欠な誇りの先生であったはずだ。こういう事件が起きても、いい先生だったと言う人は沢山いるはずである。競争に勝つことが、価値の社会だからである。私のように弱い陸上選手は、学校にとっても、地域にとっても何の意味も、価値もなかったのである。しかし、一人の人間の成長の為には、生きると言う事の為には違う。陸上の練習を自分の意思で限界までやったこと。そして体をダメにしたこと、自分の限界を知ったことは、掛けがいのないものになっている。自分の意志だけでは、大した限界ではなかったかもしれない。仲間が居たから出来た。名前は今も記憶している。安藤君や染谷君という同級生がいた。臼井さんや柳さんという先輩がいて、一生懸命練習できたことは大切なものだ。一人の人間の成長にとって大切なことは、それぞれの意思で、限界まで努力をすることだ。励ましは必要だが、暴力や強制では意味がない。
こうした馬鹿げたことが起きているのは、競争社会の問題なのだ。能力主義の問題なのだ。それを是認して、必要としている社会の方向の問題だ。競争を頑張る張り合いにすることはある。しかし、その頑張りを自分自身に向けることが大切なことだ。他者との競争は分かりやすいが、間違いやすいものだ。学業の目的であっても、強制力を持って競争を強いることは人間を育てることにはならない。学校の目的は人間教育である。全人教育に専念すべきだ。学校は生きて行く力を育てる場所。より良く生きるための人間力を育てること。それぞれの一番である事を大切にするのが人間のための教育である。その一人の人間を、その人間として育てることが教育の目的である。競争社会の中の学校教育で見失われている物を思い起こすべきだ。安倍政権になり、学校教育への競争導入がさらに言われるはずだ。子供たちがさらに追い込まれる。
昨日の時給作業:竹竿3時間 累計時間:13時間