「免疫の話」

   

西村尚子さんという方の書いた、「知っているようで知らない免疫の話」を読んだ。(技術評論社1580円)ーーヒトの免疫はミミズの免疫とどう違うーーこういう副題が付いている。医学ミステリーのような本だ。「外科の夜明け」を読んで引き込まれたことを思い出した。記号の羅列のようで面倒で、ちょっと厄介なページもあったが、それで、それで、と一気に終わりまで読んでしまった。そして、ミミズの話がないことに気付いた。しかし、そのことがそれぞれに判断できるように書かれている。読者にゆだねると言う、価値のある本だ。しかし、この本での、西村氏の考え方も私の読み方も、あくまで免疫というものの一つの切り口であり、あくまで参考である。今でも免疫の仕組みに関する疑いの気持ちは山ほどある。当然結論が書かれている訳でもない。これは一つの免疫に対する哲学なのだと思う。微生物の話と、免疫の話は、とても関連していて知のジャングルである。

免疫を考える上で重要なことは、生命という連なりに対する哲学ではないだろうか。命というものが50億年という長い年月を掛けて、継続してきた摂理のようなものを背景にして免疫はある。生命の歴史学。まずここを把握しなければ、免疫の各論に入り込み、何のための学問かを見失う。免疫学では、北里柴三郎氏や、利根川進博士のように、日本の学者が大活躍をしている分野である。今も日本には、多くの優秀な免疫学者が存在する。基礎学問に予算のない日本の悪条件の中、驚異的な成果が展開されている。想像だが、日本人的思考法が、免疫の哲学に有用なのではないかと思う。日本人の自然観である。里地里山を作り出した、自然に対する手入れの思想である。曖昧なまま、全体を受け入れる思想。アニミズムの哲学。西欧的な科学原理主義では、踏み込みにくい所が免疫学にはあるのではないだろうか。

生物には、未知の化学合成物質にも、抗体反応を持って防ぐ仕組みがある。命には、単細胞生物でも、補体と呼ばれるような仕組みがあり、異物を見分け防ぐ仕組みを持っている。だからこそ、今存在する生物は生きながらえてきた。この防御システムを解明するのが、免疫学である。ワクチンで作られる免疫システムは、特定のウイルスに対するものだ。ところが、自然免疫では多様な手法で、幅を持って対応する。免疫を司る細胞があり、幾つもの異る、重層する方法によって異物を見分け、対抗する。そもそもウイルスの変異にまで対応して行く能力が存在する。それがないとすれば、生命は継続できなかったはずである。この自然免疫でも、仕組みは多様で複雑で、解明されたとは言い切れない。実に複雑に巧みに、組み合されながら生命が守られている。ここが一番研究の最先端のようだ。これらの仕組みに、マイクロバイオームのような微生物群が影響している可能性もある。

免疫力の強化ということは、大いにあり得ることだ。ワクチンによる免疫は、有効ではあるが、限定的である。自然免疫力を弱体化する可能性もある。少なくとも自然免疫力を育てることを、阻害しかねない可能性がある。人工的なワクチンには一定の幅でしかウイルスの変異に対応できない。蔓延した鳥インフルエンザウイルスが、何故人間への感染爆発を起こさないでいるか。豚の中に入り変異を遂げた、ウイルスは簡単に人間に感染を広げる。いずれにしても巨大畜産施設での、感染の連鎖はとても恐ろしいことだ。感染し新しい個体にウイルスが入ると言う事により、ウイルスが変異する可能性は格段に高まる。病気というものはすべて、広い意味のストレスから起こる。ストレス対して対応を間違う、ストレスでないものをストレスとして認識するのが、アレルギーである。ストレスに負けるのが、病気である。それではどうしたら、自然免疫力を高められるか。改めてこの事は書きたい。

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