愛国主義教育
中国や韓国では、愛国主義教育というものが熱心に行われている。日本でも国を愛する心を育てる教育が言われるが、そうしたことがどういう結果になるか、良く隣国見ておく必要がある。私のブログでもどうも自称、愛国主義者と思われる人のコメントでも、私を工作員であるとか、中国共産党の指示を受けているとか、意味不明の暴言を吐く人が多々ある。つまり、自称愛国主義者はどうも、攻撃的になるのではないか。他人を、他国を、罵倒することで、気分を晴らそうというような精神状態になる気がする。中国、韓国での愛国主義教育というものは、実は反日教育とイコールである。国を愛するということは、高いレベルの精神的情操である。国家とは何か、国の目的とは何か、それは哲学を含んだ、多様性のある深い思想である。現代社会に暮らす人間を統一的にまとめることは難しい。しかし、敵を憎むというのは、分かりやすいスローガンレベルの思想だ。
その意味で、愛国主義のつもりが、いつの間にか反日教育になってしまった。特に中国においては、民俗的にも多様であり、広い国土で風土も多様であり、国内に民族問題、宗教問題も内在する。こうした背景のなか強烈な格差社会が広がっている。この過程で20年ほど前から江沢民政権では「愛国主義の旗を高く掲げ、中華民族の精神を発揚し、祖国を振興しよう」と主張した。ある意味、国内のきしみを愛国を掲げることで、吸収していく現実路線としての愛国主義である。いつの間にか分かりやすい反日教育にすり替えられていった。各国ともナショナリストが暴力的様相で身を固めるのと似ている。それは、愛国の思想と軍国主義とは関連しやすい思想構造にある。軍国主義は、敵が無ければ成立しない。愛国も低いレベルでは、外敵や異民族を意識して成立しがちである。韓国では、戦後一貫して反日的教育をしてきた。それは北朝鮮と国が切り裂かれ、同胞と敵対していなければならないという、自己矛盾を抱えている。どこまで経済成長してもこのとげを抱えたままの情勢である。加えて、国内の格差的な不満の方向を日本に向ける愛国主義教育で、しのいできたという事が言える。
しかし、本来の愛国は敵を必要としている訳ではない。敵を必要としない農本的愛国主義もある。実は中国も毛沢東の思想は、決して排他的なものではなく、反日教育はしていない。むしろ80年代までの中国は親日的大国の様相があった。その後天安門事件後の中国は、経済成長に特化したような政策を始める。そして、その結果生まれた共産主義とは、かけ離れた国内的な格差を抑え込むように、反日教育が徹底されている。今そうした隣国のゆがみが、日本の国境の離島の軋轢として現われている。日本の取るべき態度は、そうした隣国の低レベルの愛国ではなく、本来の人類愛ともいえる、愛国を持ってこの問題に接するべきだ。世界的な視野で見れば、中国や韓国の非礼な態度は、誰の目にも明らかなことである。日本として誇りを持ってこの問題にあたらなければならない。日本人らしい紳士的な態度を世界に示すべき時だ。
中国人と同レベルに、尖閣列島に上陸するなぞ、信じがたい愚かさである。あんな地方議員がいるから、せっかくのチャンスを逃しそうである。こんな日本人がいるために、世界の目からは、日本の正当な主張も、中国の主張のレベルにみられることになりかねない。正しい主張であれば、正しい態度で主張すべきである。野田総理の親書を送り返すような、非礼な態度を世界に示すだけでいい。そして繰り返し、国際司法裁判所に提訴したいと言えばいい。もし、中国が沖縄も中国であるから裁判をしようと言えば、応ずればいい。韓国が対馬は韓国であるという裁判を主張するなら、応ずればいい。竹島も、尖閣も向こうの意識では、対馬や沖縄ぐらいのもので、そう言う主張をする人もいる。歴史認識は両国ともかけ離れている。第三者以外この溝は埋められない。