須田剋太氏の絵
北海道の美瑛町で須田剋太氏の絵を沢山見る事が出来た。あらためて絵は人間に必要なものだと言う事を感じた。こんな感覚は久し振りの事であった。とてつもないすごい絵である。精神の絵画だと思った。世界の最後の巨匠と言っても言い過ぎで無い。それがいかにも日本人の絵である。須田剋太の絵が、私の存在を圧倒するかは、考えてみる必要がある。たぶん自分の絵と繋がっていながら、圧倒的である。骨格の絵。骨組みの絵。構造の絵。日本人のバランス感覚。この人は、材料を選ばない。どちらかと言えばキッシュである。安物好みである。もったいぶらない。この点、梅原と対極である。凝らない。出来るだけシロトっぽく。マチスとは違う下手さ。すざましい上手さの上に乗った下手さ。上手そうに見えないように、できる限りの安普請。それは、本質に迫るために、どこまで尾ひれを取るかの工夫なのだろう。マチエールの汚さ。素材の汚さ。汚さの果ての美しさ。
須田氏は一度お見かけしたことがある。もう晩年三越だったか、個展会場で見かけた。とてもかっこいい年寄りだった。あんなふうに年取りたいものだが、既にああしたかっこよさからは程遠い。絵は汚いが、姿は美しい。絵描きは大体に汚いものだが、おかしな印象だった。絵描きというよりデザイナー。字が素晴しい。井上有一氏とつい較べてしまう。絵描きの字だ。中川一政氏の最晩年の字にも通ずる。となると梅原の字とも通ずる。いずれもバランスがものすごい。井上有一氏の字を見ていると、書家に無い独自性を感じるのだが、須田剋太氏の影響と考えてもいいのかもしれない。字をトリミングする感覚は、須田剋太氏の影響がある。また、材料の安っぽさは共通。もったいぶらない二人。結局上手さと言うところをどう超えるかに、とても大切なことが隠されている。どの道上手いは絵ではない。工芸的であるところからの逸脱。その人の本質らしき所に、どう迫れるのか。ここに尽きる。
こういう逸脱した絵を、社会的な価値基準で、一般的に論じた所で意味がない。ある人にとってとても深いところで、通ずるものがある。と言う限られた事として考えた方がいい。それは、本当の事が描かれているからである。本当の事は、わかりにくい所がある。一般的でないところがある。本当を描こうとしたあまり、こうなってしまっただけなのだろう。本当とは須田剋太氏の精神の深いところと通じているということだろう。それを説明し伝えようと切実にしている。誰でも精神はあるのだが、こうまでも深いと言う事が希なだけだ。絵画が自己表現であるという意味を、明確に持っている。須田氏の絵はイラストである。説明的である。深い心の奥底を説明している。伝えようとしている。伝えるための手段としての絵画。例えば、悟りの境地のような、なんともいわく言いがたいものを、イラストしようとしている。
存在すると言う事を絵にしようとする。分かるように伝えようとする。芸術的に風のごまかしがない。見えているものを、見えているようにイラストする。だから、あの書と言うか文字と殆ど同じことである。意味を飾る。文字が並び、野菜が並ぶ絵がある。文字も、絵も、同じ扱えないかと試みている。この違和感と、調和。美瑛の美術館は正に、須田剋太精神である。大雪山と美瑛の大地を背景に、須田剋太絵画を対峙しようとした。正に違和感と、調和。この美術館は大阪の収集家の方が作った個人美術館である。岩の丘に建てられている。太い柱の新潟から運んだ古民家である。このくろぐろとした太い柱で無いと、ダメだと。そして前にはには、高山植物のロックガーデン。3階の広がったガラス窓から、眺める大雪の景観は、一つの絵画として作られている。ランドスケープを作る。すごい人がいるものだ。
昨日の自給作業;草刈、種蒔き1時間 累計時間:34時間