立春大吉

   


書は好きだ。水彩画ととても近いものだと思っている。書は文字と言う形が頭の中に、存在してそれを、紙に描き出す。水彩画も頭の中に、文字に当たる形が出来上がっていないと描き出すことは出来ない。立春大吉の書初めを必ず二枚書いて、張り出す。何かの余った紙に描く。余った紙と言えば、水彩画の切れ端と言う事になる。大きな水彩画を描き出すとき。大きな巻紙から、適当に切って描き始める。おおよそ決まってきた所で、パネルに張る。出来上がりの大きさもそのとき決めるので、随分余ることがある。この残り紙がなかなかうつくしいこともある。そのままハガキサイズに切り分けて、絵はがきとして使ったこともある。裏側は白い訳だから、そこに文字を書く事もある。いずれサラのきれいな紙を使って立春大吉を書くことはない。そういう風習があるわけではないが、自分の中で、そうじゃないと立春大吉を書いたような気に成れないのだ。そして一年間は、2ヶ所に張っておく。これが我が家の厄除けのようなものだ。

立春大吉というような簡単な字でも、下書きか何かを見ないと先ずは間違う。毎年どこかがおかしい字を書いてしまう。「吉の口が日」に今年は成った。「春の日が口」になった年もある。頭のなかの字を書く回路が、そのようになっている。字を書き出すと、脳のなかの絵を描くほうの分野が働く。まったく字を書く回路が止まってしまって、字を思い出せなくなる。何を書いていたのかが判らなくなることもある。間違っては困るものの場合はどんな簡単な字でも、書いたものを脇に置いて、確認しないと安心ならない。中川一政氏の書が好きだ。最晩年の花輪の署名を私の師匠の葬儀の場で見た。何と自分の名前に鉛筆で下書きがあった、その下書きをものともせず書いている字が又、よかった。字がすばらしいと言うのは、それを書いた人が素晴しいのであって、知らない人の字がおもしろいなどと言う事はない。だから書道家というようなものは、私には信じがたいものだ。つまり、坂本竜馬の字は見てみたいが、日展の何とか先生の字を見たいわけではない。

不思議なことに、今日から気持ちが変わる。農作業を始める気分になる。体がむずむず動き出すようだ。寒さはまだ厳しい日もあるのだろうが、草が動き出してきたのが判る。ハコベなど地面を覆うほど繁茂している陽だまりがある。昨日の集荷場では、蕗の薹を山下さんが出していた。もう山北でも出始めたそうだ。舟原では案外に少なくて、目をつけている所を今日探してみる。今年は山ウドが出てきたなら、塩ビパイプをかぶせて、長く伸ばすつもりなので、要注意。梅はすっかり満開である。2月1日から下曽我の梅祭りだが、今年は花が見ごろで賑わっていることだろう。裏の家で大きな梅を剪定してくれた。家の屋根にかぶさっていて、落ちては夜中に起こされていた。風情があるといえば言えるのだが、実に響き渡る音で、ビックリしていた。立春に成ると、農作業をやりたくなる。ハウスの中を片付けて、種蒔きをして見る。

納豆が出来た。日曜の味噌作りの後、余った大豆が毎年あるので、今年はそのまま納豆作りをして見る事にした。そんなにやる人が居るとは思わず、藁を一抱え持って行っただけだったら、何と大勢が集まってやってみたいと言う事になった。わらの束ね方は、見よう見まねだったのだが、今年は秋田出身の方が子供の頃、見たことがあるというので、その方の指導で、藁ツトといっていいのか、藁を束ねて大豆を仕込んだ。保冷庫に入れてペットボトルの湯たんぽを8時間ごとに4回交換した。空けてみると納豆になっていた。今朝食べるつもりだが、前作ったときより、粘りがあるようだ。失敗しないように、不安な人はできた納豆を入れて下さいと、納豆も用意したが、ほとんど使う人は居なかった。納豆が上手くできたのも、早速立春大吉の効果が出たと言う所だろう。

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