いよいよ減反廃止か
政府が食管制度廃止の検討に入った。石破農水大臣に期待したい。これほど情けない悪制度も、珍しい。作りたいという人に作らせない、米作り日本一にも作らせない必要悪制度。では廃止したらどうなるだろう。先ず米が余るだろう。余るから安くなる。安くなったからと言って、倍は食べられない。はっきりと変わるのは、言い訳のない状況が生れると言う事だ。パン給食がかなりある。教育というのにその不自然さが理解できない人が居る。言い訳の1つが、米の方が輸入小麦より、高い。減反をやめれば、これは変わる。お米が一番安い食べ物になる。「貧乏人は米を食え。」と言っても余る。余る米をどうするか。米本位制にしたい。サラリーが塩からきているらしいから、日本人なら米本位制の10石取りでいい。一石はおおよそ一人の人間の一年の食べる量。150キロと言うから、随分食べた。日本の援助は全て米にする。援助にかこつけた、商売にならないけれどこの方が健全。
安くなるから戸別補償と組み合わせと成る。これが曲者。民主党は主に満遍なくと言う方針が基本。自民党は大規模農家、企業参入が中心。いずれ、お米農家に別枠で保障して、農業の継続可能な仕組みを作ろうと言う事になる。いずれにしろ、根本に置くべき、思想の問題である。日本をどんな国にするのかが定まらないまま、田んぼの事だけ考えてみても、無理がある。麻生首相の掲げた(1)世界最高水準の環境技術と社会システムの構築を目指す「低炭素革命」(2)最先端の医療研究の活用や、効率的な医療・介護サービスを実現する「健康長寿」(3)日本らしいソフトパワーをいかす「底力発揮」(日経)ここにどう反映するのかが重要。関係ないようだが、日本の農村社会あり方と地域医療は有機的な繋がりがある。「低酸素革命」と田んぼがどう関係するのか。ソフトパワーが何を意味するかわからないが、たぶん人間力のようなものだとすると、人間と田んぼがどうかかわるものか。
明確な哲学思想を持った視点から、田んぼのことを考えてもらいたい。減反制度が、単なる経済的合理主義で、人間の心を駄目にした。農村社会そのものを崩壊させた。工業社会の論理を、農業生産に持ち込んだために、馬鹿らしくなってみんなが止める方向に進んだ。田んぼを支えてきた哲学は、経済性ではなかった。田んぼや土地に執念のような不思議な感覚がかつては存在した。そもそも日本人と言うおぼろげな形が、田んぼから生まれてきたようなものだった。別にその原点にもどれと言うのでなく、自民党は、麻生氏の三つの指針を忘れることなく、農業の未来像を検討して欲しい。企業参入や大型化によるコスト削減が、放棄地の増加を生む可能性が高い。この補いとしてあった減反保障を止めれば、効率の悪い田んぼが本格的に放棄されるだろう。効率の悪い山間部の田んぼこそ、環境保全システムの中で役割がある。
足柄地域は、大規模化は不可能な地域。企業参入など考えられない地域。と言って中山間地でもない地域。独自の地域循環システムで、対応したい。地域の田んぼで出来るお米を、学校給食にする。高く買い上げる。政府が地域でお米の生産が継続できるだけの保証を行う。給食米は市、町単位でキロ600円で買い上げる。この費用に国庫補助を入れる。1、大規模化できる地域と、2、都市近郊で子供がまだ居る地域。3、そして中山間地域。同じ仕組みでは対応できない。中山間地域は手厚い戸別補償。大規模化可能地域は、大規模化する為の経済的支援。政府も主張する「うつくしい農村」となるべき、足柄地域。都市近郊に美しい農村が広がる価値。里地里山の美しい維持こそ次の時代の価値となる。給食と言う形で子供を見守る仕組み。田んぼのない都市部の学校は、中山間地と提携をして、助けあうことも可能だ。